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第28話

 翌日の午後になり、茜音は春奈のマンションを出る支度をした。


 カーテン越しの光は、午前中よりも少し柔らかい。


 ソファに置いたバッグを手に取る。


 ――行こう。


 理由を言葉にする必要はなかった。


 今日やるべきことは、もう決まっている。


 玄関で靴を履きながら、茜音は一度だけ深く息を吸った。


 心臓の鼓動が、少しだけ早い。


 外に出ると、午後の空気はひんやりしていた。


 タクシーを拾い、短く行き先を告げる。


「役所まで、お願いします」


 走り出した車の中で、窓の外を流れる景色をぼんやりと眺める。


 ――離婚届。


 その言葉を心の中で反芻しても、胸がざわつくことはなかった。


 決意は、もう感情の波を越えたところにある。


 陸翔がどんな釈明をしようと、どれほど「何もなかった」と繰り返そうと、


 戻れない場所がある。


 信頼は、積み重ねた時間の長さでは守れない。


 一度壊れたものは、元の形を装うことはできても、


 本当の意味で元には戻らない。


 そして今の茜音には、何よりも優先しなければならない存在があった。


 ――この子。


 まだ小さく、実感は薄いままの命。


 それでも確かに、自分の身体の中にいる。


 この子を失うわけにはいかない。


 その思いだけは、揺らがなかった。


 役所に着くと、午後の時間帯らしく人はまばらだった。


 番号札を取り、椅子に腰掛ける。


 バッグの上に置いた手が、無意識にお腹の前に重なっていることに気づき、


 茜音はそっと下ろした。


 名前を呼ばれ、窓口に進む。


 必要な書類を受け取り、淡々と説明を聞く。


 一枚の紙が手渡された。


 離婚届。


 紙の重みが、はっきりと現実を伝えてくる。


 それをバッグにしまい、茜音は役所を出た。


 空は、少しだけ色を変え始めていた。


 夕方に向かう気配。


 そのまま、実家へ向かう。


 門をくぐる瞬間、胸の奥がきゅっと強張った。


 ――陸翔が来ていたらどうしよう。


 そんな考えがよぎる。


 けれど玄関に並ぶのは、見慣れた家族の靴だけだった。


 それだけで、知らず息を吐いている自分に気づく。


 夕方になり、父と兄の啓介が帰宅した。


 夕飯は、いつもと変わらない食卓。


 穏やかな会話。


 何気ない日常。


 けれど茜音の中では、この夜が分岐点になることが分かっていた。


 食事を終え、皆が一息ついたところで、茜音は背筋を伸ばした。


「……お父様、お母様。


 それから、お兄さん。少し、お話があります」


 家族の視線が集まる。


 茜音は、ゆっくりと、はっきり言った。


「私、陸翔と離婚します」


 一瞬、空気が止まった。


 母が息を呑み、啓介が驚いたように眉を上げる。


 父はしばらく黙ったまま茜音を見つめ、やがて静かに尋ねた。


「……決めたのか?」


「はい」


 茜音は頷いた。


「私から、陸翔に対する信頼がなくなりました」


 事実を述べるような声音だった。


「でも、まだちゃんと話し合えていないんだろう?」


 啓介の問いに、茜音は首を横に振る。


「話し合っても、同じだと思います」


「何もなかったとしても、


 私はもう、陸翔を絶対的に信じられない」


「疑いながら一緒に生きる生活は、私には無理です」


 言葉を一つずつ、置くように続ける。


「今の私たちは、離れた方がいい。


 それが、お互いのためだと思っています」


 父は深く息を吐いた。


 昔から、茜音はこうだった。


 一度決めたことは、簡単には曲げない。


「……それで、今後どうするつもりだ」


「弁護士さんにお願いしたいと思います」


 そう言って、父を見た。


「お父様、お願いしてもいいでしょうか」


 短い沈黙のあと、父は頷いた。


「分かった。


 弁護士は、私が手配しよう」


「ありがとうございます」


 茜音はバッグから一枚の書類を取り出した。


「離婚届は、もう用意しています。


 私の署名は、記載済みです」


 テーブルに置かれた紙を見て、家族は言葉を失った。


 そこに書かれた名前が、茜音の決意の固さを何よりも示していた。


 茜音は一瞬、言葉を迷わせる。


 妊娠していることを伝えれば、きっと離婚を反対される。


 まだ話し合いが終わっていない段階で告げれば、踏みとどまるように言われるだろう。


 けれど、このまま陸翔と生活を続けることはできない。


 もし離婚の過程で子どもの養育権を取られるようなことになれば、それはもっと受け入れられなかった。


 ――今は、まだ言わない。


 茜音は、静かに決めた。


 離婚の道筋が立ったとき、そのときに伝えればいい。


 席を立ち、部屋を出たあと、茜音はそっとお腹に手を当てた。


「ごめんね」


 小さく、声に出す。


「今はまだ、みんなからお祝いを言ってもらえなくて」


 少し間を置いて、続ける。


「こんなママだけど……許してね」


 お腹の奥から、返事が返ってくることはない。


 それでも茜音は、しばらくそのまま手を当て続けていた。

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