第27話
茜音は、これ以上家族を心配させてはいけないと思い、ひとまず実家へ戻ることにした。
タクシーに乗り込み、シートに身体を預けた瞬間、張り詰めていた何かが、少しだけ緩む。
窓の外を流れていく街並みを、ぼんやりと眺めていると、スマートフォンが震えた。
画面に表示された名前は、春奈だった。
「……もしもし」
『茜音ちゃん、大丈夫?』
電話口の春奈の声は、明らかに切迫していた。
その緊張が、そのまま茜音の胸に伝わってくる。
「……大丈夫だよ」
そう答えながら、その言葉が春奈のためのものなのか、それとも自分自身に向けたものなのか、茜音には分からなかった。
『本当に? 無理してない?』
「うん……ちょっと疲れてるだけ」
一瞬の沈黙。
それから、春奈は静かに切り出した。
『実はね……陸翔くんが、うちに来てるの』
その言葉に、茜音の指先がわずかに強張る。
『どうしても、茜音ちゃんと話をしないといけないって。
茜音ちゃんはここにいないって言っても、全然聞かなくて……』
茜音は無意識のうちに、自分のお腹に手を当てていた。
マンションで見た光景も。奈菜が自分のパジャマを着ていたことも。
そして、妊娠という事実も。
頭では理解しているのに、それぞれが現実として、うまく繋がらない。
言葉が出ず、黙り込んでいると、春奈が続けた。
『今日は……こっちに帰ってこない方がいいと思う』
その提案に、茜音は小さく息を吐いた。
「……うん。そうする」
電話を切ったあと、茜音は窓の外を見つめる。
流れていく景色が、どこか遠い世界のもののように感じられた。
春奈のマンションに着くと、玄関に入った途端、どっと疲れが押し寄せる。
着替えるのも億劫で、そのままソファに身体を沈めた。
「……少しだけ」
そう呟いたつもりだった。
陸翔のこと。
そして、お腹の中にいるかもしれない、小さな存在のこと。
考えなければならないことは、山ほどある。
それなのに、今はただ、意識を手放したかった。
気づいたときには、外はすっかり暗くなっていた。
「……寝ちゃったのね……」
喉の渇きを覚えながら、スマートフォンを手に取る。
画面には、春奈からの着信とメッセージが残っていた。
【陸翔くんは帰ったわ】
【今日はこっちに来ない方がいい】
【気づいたら、電話ちょうだい】
少し迷ってから、茜音は春奈に電話をかけた。
『寝てた?』
「……うん。ごめんね、寝ちゃって」
『いいのよ。それより……今日は、何かあった?
ちょっと陸翔くんの様子が変だったし』
春奈の問いに、茜音は一瞬、言葉を探す。
「……診察券を取りに、マンションに行ったら……
陸翔に、会っちゃって……」
それ以上は、どうしても言えなかった。
今日のことを、誰かにすべて話してしまったら、もう戻れなくなる気がした。
その感覚に、自分自身で驚く。
まだどこかに、「戻れるかもしれない」と思っている自分がいる。
その事実が、何よりも茜音を動揺させていた。
「……陸翔、何か言ってた?」
『内容までは……』
春奈は小さく息を吐く。
『とにかくね、「茜音ちゃんと直接話がしたい」
「事情を説明したい」って、そればっかり』
『私も、お義母さんも困ってて……
帰らないなら啓介さんを呼ぶって言って、帰ってもらったの』
陸翔は、何を説明したいのだろう。
言い訳なのか。弁明なのか。
それとも、本当に「何もなかった」と言い切るつもりなのか。
考えが浮かびかけたところで、茜音はそれを止めた。
もう、いい。
その思いと同時に、またお腹に手が触れる。
『体調はどう?』
「……うん、大丈夫」
完全な嘘ではないことに、わずかに安堵する。
『病院では、何か言われた?』
春奈の問いに、茜音は一瞬、目を閉じた。
本当は、家族にも伝えなければならない。
この小さな命のことを。
それでも、今すぐにはどうしても言葉にできなかった。
「……みんなに、話したいことがあるの」
自分でも驚くほど、声は静かだった。
「明日の夜……
みんな、いるかな?」
電話の向こうで、春奈が少し黙る。
『……ちょっと、待ってて』
数分後、再び声が返ってきた。
『明日の夜八時なら、みんな帰ってこれるって』
『来られるなら、うちでご飯、食べよう』
「……ありがとう」
それだけ言って、茜音は通話を切った。
ソファに身を沈め、天井を見上げる。
明日、話す。
そう口に出したわけでもないのに、その言葉だけが頭の中に残っていた。
何を、どこまで。
まだ、自分でも分からないまま。




