第26話
診察室に入ると、まずは問診から始まった。
白いカーテンの向こうで、機械が小さく音を立てている。
「どんな状態ですか?」
穏やかな声だった。 茜音は、少し考えてから答える。
「……ストレスだと思うのですが、
ずっと食欲がなくて……少し食べると、吐いてしまうこともあって……」
担当医は、カルテに視線を落としたまま、静かに頷いた。
「ストレス、ということは、何か心当たりはあるんですね?」
「…………はい……」
それ以上は、言葉にならなかった。
説明しようとすれば、どこから話せばいいのか分からない。
医師はそれ以上踏み込まず、 聴診や簡単な触診を進めていく。
「ご結婚は、されていますよね」
その一言に、茜音の心臓がわずかに跳ねた。
「妊娠の可能性は、ありませんか?」
――妊娠。
頭の中に、その言葉がゆっくりと広がる。
茜音は、小さく、静かに首を振った。
「……ない、と思います」
自分でも、その答えに確信があるわけではなかった。
けれど、そう答える以外の選択肢が、今は見つからなかった。
医師は顎に軽く手を当て、少し考える。
「念のため確認させてください。 最後の生理は、いつ頃でしたか?」
「最後の……生理……」
茜音は、記憶を辿る。
もともと、周期は安定していなかった。 体質的に不順気味で、
だからこそ、妊娠はしづらいと、どこかで思い込んでいた。
ふと、スマートフォンで管理していたことを思い出す。
バッグから取り出し、画面を開く。
着信履歴が、また増えていた。 陸翔の名前が、何度も並んでいる。
茜音は、それを見ないふりをして、 生理管理アプリを開いた。
「……二か月前です」
画面を見せながら、そう答える。
「もともと不順なので、 遅れることも、よくあります」
医師は、画面と茜音を交互に見てから、穏やかに言った。
「では、念のため妊娠検査をしましょう。
尿検査だけですから、すぐに終わります」
「もし妊娠していなければ、 そのあとレントゲン検査に進みましょう」
茜音は、ただ頷いた。
検査のために席を立ちながら、
胸の奥に、理由の分からないざわめきが広がっていく。
結果が出るまで、 廊下のソファーで待つように言われた。
腰を下ろすと、身体が思った以上に重い。
バッグの中で、スマートフォンが震え続けているのが分かる。
音は消しているのに、 振動だけが、執拗に伝わってくる。
茜音は、しばらく目を閉じていたが、
やがて、意を決したようにスマートフォンを取り出した。
画面いっぱいに表示される、陸翔の名前。
一度、深く息を吸ってから、 着信拒否の操作をする。
画面が切り替わり、 陸翔の名前が消えた。
それだけのことなのに、 指先が、わずかに震えていた。
「……牧田さん」
名前を呼ばれ、 茜音はゆっくりと立ち上がる。
診察室に戻ると、 医師はカルテから顔を上げた。
「検査結果が出ました」
一拍、間があった。
「おめでとうございます。 ご懐妊です」
静かな声だった。
おめでとう、という言葉が、 一瞬、現実感を伴わずに耳に入る。
――ご懐妊。 ――妊娠。
私が?
頭の中が、真っ白になる。
私が、妊娠している。 陸翔の……子どもを。
言葉にならない疑問と、 追いつかない現実が、同時に押し寄せてくる。
医師は、必要な説明を淡々と続けた。
「今の体調不良は、つわりの可能性が高いですね。
しばらくは無理をせず、安静にしてください」
「薬についても、注意が必要になりますので……」
茜音は、何度か頷いた。 理解しているようで、
ほとんど何も頭に入ってこなかった。
診察室を出ると、 廊下の明るさが、やけに眩しく感じた。
――妊娠。
自分には縁のないものだと、 どこかで決めつけていた。
そっと、下腹部に手を当てる。
まだ、何も感じない。 触れても、変わった感触があるわけでもない。
それでも。
「……ここに、赤ちゃんがいるのね」
声に出すと、 ようやく、それが現実として胸に落ちてきた。
この事実を、 どう受け止めるのか。 どう生きていくのか。
その答えは、 まだ、何ひとつ見えていない。
ただ一つ分かるのは、
確かに、ここに新しい命がある、ということだけだった。




