第24話
茜音はタクシーを呼ぶと、マンションの住所を告げた。
声は、思ったよりも落ち着いていた。
窓の外を流れていく景色を見つめながら、
自分が今、どこへ向かっているのかを考えないようにしていた。
久しぶりの自宅。 ほんの数日しか離れていないはずなのに、
もう何年も帰っていなかったような感覚がある。
マンションのエントランスに着き、
オートロックを抜けてコンシェルジュの前に立つ。
「牧田様、おはようございます」
丁寧に頭を下げられ、茜音は小さく頷いた。
「すぐに出ますので、
タクシーをそこに待たせています。よろしくお願いします」
そう告げて、エレベーターに乗り込む。
上昇する感覚が、妙に現実離れしていた。 耳が少し詰まる。
――陸翔、いないよね。
そう思いながらも、 確信はどこにもなかった。
自宅のフロアに着き、 廊下を歩く。
玄関の前に立った瞬間、 理由の分からない緊張が、全身を包んだ。
深呼吸を一つして、鍵を開ける。
この瞬間、なんて言うべきなのだろう。
「ただいま」なのか、 それとも「おじゃまします」なのか。
そんなことを考えながら、 無意識に自分のスリッパを探した。
――ない。
不思議に思い、そのままリビングへ向かう。
次の瞬間、 茜音の視界に飛び込んできたものに、思考が止まった。
茜音のパジャマを着て、 茜音のスリッパを履いた奈菜の姿。
一瞬、何を見ているのか分からなかった。
夢なのか、現実なのか。
奈菜も、茜音に気づいて目を見開いた。
その手には、写真立て。
茜音と陸翔のウェディングフォト。
そして―― 奈菜はそれを、そのままゴミ箱に落とした。
音を立てて 写真が他のゴミに埋もれる。
衝撃で、声が出なかった。 手に持っていたバッグが、床に落ちる。
「……お、奥様、ですか」
奈菜が、戸惑ったように尋ねる。
そのとき、寝室の方から物音がした。
「……何? どうした?」
パジャマ姿の陸翔が、眠そうな顔で出てくる。
「し、社長……」
奈菜が、反射的に陸翔の方へ駆け寄る。
その動きで、陸翔の視線がこちらを向いた。
「あ……茜音……」
次に、 自分の隣に立つ奈菜の姿を見て、陸翔は言葉を失った。
茜音は、その光景を、ただ見ていた。
説明も、問いかけも、 頭の中には何も浮かばない。
咄嗟にバッグを拾い上げる。
それ以上、そこに立っていられなかった。
茜音は踵を返し、 走るように玄関を出た。
エレベーターに飛び込み、 扉が閉まるのを確認した瞬間、
足の力が抜けそうになる。
エントランスを抜け、 待機していたタクシーに乗り込む。
「病院でいいですか?」
運転手の声が、やけに遠く聞こえた。
「……どこでもいいです」
声が震えるのを、必死で抑える。
「どこでもいいから……早く、出て」
タクシーが走り出す。
窓の外の景色が、滲んだ。
茜音は、シートに深く身を沈め、 自分の両腕を強く抱きしめた。
――もう、戻れない。
そう思ったのかどうかさえ、 分からなかった。
もう、あの部屋に 私の居場所はなかった。




