第22話
陸翔から指定されたのは、記念日によく行っていたレストランだった。
特別な日でなくても、理由をつけて足を運んでいた場所。
いつからか、そこは「二人の節目」を確認するための場所になっていた。
時間はディナーの時間帯。
日曜日でも、陸翔はきっと仕事をしてから来るのだろう。
そう思うと、自然と納得してしまう自分がいることに、茜音は小さく息を吐いた。
――私は、まだ普通に考えられている。
そう思う一方で、それが本当に「普通」なのか、自分でもよく分からなかった。
そんなとき、春奈から連絡が入った。
「日曜日、よかったら一緒に息抜きしない?
うちの実家がやってる養護施設のチャリティーがあるの」
春奈の実家が中心となって、定期的に行われているチャリティーイベント。
バザーや募金、子どもたちが参加できる催しも多く、地域ではそれなりに知られていた。
独身時代、春奈に誘われて何度か足を運んだことがある。
忙しさに追われる前の、少しだけ余裕のあった頃。
――久しぶりに、子どもたちの顔が見たい。
そんな気持ちが、ふっと湧いた。
「うん。行く」
陸翔との約束は夜だ。
昼の予定が入っても、問題はない。
そう思える程度には、まだ心は日常の延長線にあった。
そうして迎えた当日。
養護施設の敷地内には、予想以上に多くの人が集まっていた。
春奈の実家が運営するバザーのブースには、手作りの雑貨や焼き菓子が並び、途切れることなく人が訪れている。
「茜音ちゃん、こっちお願い」
声をかけられ、茜音も春奈と並んで売り子に立った。
久しぶりに人と会話をし、笑顔を向け、「ありがとうございます」と頭を下げる。
それだけのことなのに、胸の奥が少しずつほぐれていくのが分かった。
――ちゃんと、呼吸できてる。
そんな感覚が、久しぶりだった。
「茜音ちゃん、疲れたでしょう。
少し休憩して、お昼でも食べてきて」
春奈の言葉に、茜音は頷いた。
「ありがとう。少しだけ」
ブースを抜け、施設の中庭に出る。
子どもたちが元気に走り回っていた。
転んで、泣いて、すぐに立ち上がり、また笑って走り出す。
その姿を見ているだけで、自然と口元が緩む。
――子どもの笑顔って、どうしてこんなに力があるんだろう。
何か軽く食べようかと、出店を眺めながら歩いていた、そのとき。
「ねえねえ、今回初めて牧田ホールディングスの社長が来てるらしいけど、
すっごいイケメンじゃない?」
ふと、耳に引っかかる言葉。
牧田ホールディングス。
聞き間違えるはずがない。陸翔の会社だ。
胸の奥が、わずかに波打つ。
顔を上げた先に、見覚えのある後ろ姿があった。
陸翔。
スーツ姿で、関係者らしき人たちと話している。
仕事の場にいるときの、あの姿。
そして――その隣に、女性が立っていた。
水川奈菜。
一瞬、時間が止まったように感じた。
奈菜はそっと、陸翔のスーツの裾を引いた。
控えめで、甘えるような仕草。
何かを囁く奈菜の口元に、陸翔が自然に身を屈める。
距離を詰めることに、ためらいはなかった。
次の瞬間、陸翔の手が奈菜の腰に回った。
守るように。
当たり前のように。
その光景を、茜音はただ立ち尽くして見ていた。
「旦那さんがあんなにイケメンで、しかも優しいなんて……
神様も不公平だわ」
背後から聞こえた、軽い笑い声。
「奥様も可愛いし、お似合いよね」
言葉が、頭の中で反響する。
――違う。
そう思ったはずなのに、喉が張り付いたように、声が出なかった。
胸の奥が、じわじわと締め付けられていく。
息が、浅くなる。
その頃、少し離れた場所にあるバザーのブースで、春奈はふと顔を上げた。
人の流れの向こうに、茜音の姿が見える。
茜音は、人混みの中で立ち尽くしたまま動いていなかった。
視線は、ある一点に向けられている。
――あれ?
その様子に違和感を覚え、春奈は思わず茜音の視線の先を追った。
そこにいたのは、陸翔だった。
そして、その隣に立つ女性。
二人はとても自然な距離で並び、親しげに言葉を交わしている。
隣の女性が何かを囁き、陸翔が身を屈める。
次の瞬間、陸翔の手が女性の腰に回った。
親しい関係でなければ、
そう簡単にできない距離だった。
それを見た春奈は、思わず息をのんだ。
慌てて茜音を見る。
茜音はまだ、その光景を見つめたまま動けずにいた。
顔色が、みるみるうちに白くなっていく。
「あかね……?」
呼ぼうとした、その瞬間だった。
茜音は突然、弾かれたように歩き出した。
いや――
逃げるように。
人混みをすり抜けるようにして、施設の奥へと向かっていく。
「……っ、茜音ちゃん!」
春奈は慌ててブースを飛び出した。
茜音は人のいない施設の裏手へ。
足がもつれるのも構わず、ただ距離を取る。
建物の陰に回った瞬間、胃の奥から酸っぱいものがこみ上げてきた。
「……っ」
耐えきれず、しゃがみ込み、嘔吐した。
覚悟はしていたはずだった。
こういう光景を、どこかで想像していたはずだった。
それでも、涙が止まらない。
嗚咽が、勝手に喉から漏れる。
「茜音ちゃん!!」
春奈が駆け寄り、背中をさする。
「ごめんね……まさか陸翔くんが来てるなんて、思いもしなくて……」
その言葉に、茜音は首を横に振った。
何も言えないまま、また胃が波打つ。
吐き気は、なかなか治まらなかった。
春奈は何も聞かず、ただ背中をさすり続ける。
「……もう帰ろう。ね。今日は、ゆっくり休もう」
その声に、茜音は小さく頷いた。
車のシートに身を沈めると、身体から一気に力が抜けた。
スマートフォンを取り出し、短いメッセージを打ち込む。
「ごめんなさい。体調が悪くて、今日は行けそうにありません」
送信ボタンを押したあと、それ以上、考える余力は残っていなかった。
まるで意識を手放すように、茜音はそのまま眠りに落ちた。
――夜のディナー。
その言葉は、もう遠くにあった。




