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第21話

それから一週間。

陸翔からのメッセージは、ほとんど毎日のように届き続けていた。


まるで―― 何も起きなかった頃に、時間だけが静かに巻き戻ったかのように。


【元気?】

【ちゃんとご飯食べてる?】

【こっちは忙しくて、ゆっくり食べられてない】

【風邪ひいてない?】

【会いたい】

【……正直、寂しい】


画面に並ぶ言葉は、どれも見慣れたものだった。

責めるでもなく、問い詰めるでもない。

以前と変わらない調子で、日常の延長にある言葉たち。


茜音は通知が来るたびに画面を開き、 最後まで読んでから、そっと閉じた。


返事は、一度もしていない。


返したくなかったわけではない。

ただ、今の自分が返せる言葉が、どこにも見つからなかった。


春奈が用意してくれたマンションでの暮らしは、静かだった。

必要なものは揃っているのに、

どこか仮住まいのようで、生活がまだ根を張っていない感覚がある。


日中は、近所を歩いた。 目的はなく、ただ身体を動かすために。


太陽の光を浴びて、足を前に出していると、

夜は少しだけ眠れるようになってきた。

深くはないが、目を閉じていられる時間。


夕飯は、真帆の「みんなで食べよう」という言葉に甘えて、

実家で取ることが多かった。


「ちゃんと食べなきゃ」


そう言われるたび、茜音は笑って頷く。

けれど、量はどうしても増えなかった。


少し口にすると、胃の奥に違和感が残る。 空腹ではなく、受け付けない感じ。


家族は、それ以上は何も言わなかった。

その沈黙が、気遣いだと分かるからこそ、胸に残る。


――もう、一週間。


そう思ったその夜、 陸翔から新しいメッセージが届いた。


【明日、そっちに戻れる】

【時間が遅くなりそうだから……明後日、会って話せないかな?】


画面を見つめたまま、 しばらく指が動かなかった。


陸翔は、この一週間ずっと同じことを言っている。 「何もなかった」

その言葉は、揺らいでいない。


先日、謝罪も兼ねて陸翔の実家を訪ねたとき、

義母もまた、同じように言った。


――何もなかったのよ。


ただ、そのとき。 ほんの一瞬、言葉が途切れた。


歯切れの悪さ。 視線を外した、わずかな間。


それが、茜音の胸に小さな引っかかりとして残っている。


「……明後日」


声に出してみると、 思っていたよりも、穏やかな響きだった。


もし、本当に何もなかったのなら。

もし、今回は陸翔と奈菜の間に

越えてはいけない一線がなかったのなら。


それは―― 喜んでいいことなのだろうか。


安心して、 「よかったね」と言って、 元の生活に戻っていいのだろうか。


そう思った瞬間、 胸の奥が、きゅっと締め付けられた。


嬉しさだけではない。 けれど、怖さだけでもない。


期待と、不安と、 そのどちらともつかない感情が、同時に胸に広がる。


――こんなふうに、少し安心してしまっていいのかな。

――疑わずに、笑ってしまってもいいのかな。


問いは、答えにならないまま残った。


茜音は、深く息を吸い、 ゆっくりとスマートフォンを手に取った。


送ったメッセージは、短い。


【わかりました】

【明後日、お話ししましょう】

【気を付けて帰ってきてください】


送信ボタンを押したあと、 しばらく画面を見つめてから、伏せる。


ふと、思い出した。


休日の朝、 二人で遅く起きて、 どちらともなくコーヒーを淹れていた時間。


特別なことは何もなくて、 ただ同じテーブルに座って、

同じテレビをぼんやり眺めていた日常。


何気ない会話。 何気ない沈黙。


「あの頃」は、 幸せだったのだと、今なら分かる。


その記憶が、不意に胸に広がって、 茜音の口元が、わずかに緩んだ。


―― 昔の、確かに幸せだった時間を思い出していた。


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