第20話
家の中から人の気配が消えたのを確認してから、茜音はゆっくりと息を吐いた。
父と母、啓介。みんながそれぞれの用事で外出し、久しぶりに訪れた静寂だった。
「じゃあ、行こっか」
玄関で声をかけてくれたのは春奈だった。
茜音は小さく頷き、バッグを持って靴を履く。
二人で向かったのは、春奈が大学時代に暮らしていたというマンション。
実家から車で三十分ほど、駅前の通りを一本入った場所に建つ、落ち着いた雰囲気の建物だった。
「この辺り、懐かしいの。母校の裏手なのよ」
そう言って春奈は笑った。
間取りは一LDK。コンパクトだが、ひとりで暮らすには十分すぎるほどだ。
部屋に入ると、遮光カーテン越しに柔らかな光が滲んでいた。
春奈がカーテンを開くと、一気に日差しが差し込み、部屋の空気が動き出す。
「一応、定期的に空気の入れ替えには来てもらってたんだけど……」
春奈は窓を開けながら、少し申し訳なさそうに言った。
「やっぱり、ずっと人が住んでいないと、空気が澱むわね」
茜音は部屋を見回しながら、ふっと口元を緩めた。
「私……一人暮らしって、したことないから」 「なんだか新鮮です」
明るく言ったつもりだったが、その声は自分でも少し軽すぎると感じた。
「そうよね。茜音ちゃん、ずっと実家で、結婚してからは陸翔くんと一緒だったものね」
春奈はそう言ってから、少し言葉を選ぶように続けた。
「でもね……正直に言うと」
「私は、ここであまり長く、ひとりで暮らしてほしくないの」
その言葉に、茜音は視線を落とした。
「……私も、そうは思ってるんですけど」
歯切れの悪い返事になってしまう。 本当は、自分でも分かっていた。
これは“新しい生活”ではなく、“一時的な避難”なのだと。
そんな茜音の表情を察したのか、春奈は優しく背中を押すように言った。
「今日の午後にはクリーニング業者が入るから、明日には住めるわ」
「その前に、ホテルを引き払って、必要な日用品を買い揃えましょう」
その段取りの良さに、茜音は救われた気がした。
考える暇を与えられると、心が余計な方向へ沈んでしまう。
二人は一度ホテルへ戻り、茜音の荷物を引き上げた。
それからその足で、ベッドカバーやタオル、最低限の生活用品を買い揃える。
買い物を終え、荷物を車のトランクに積み込んでいると、春奈がふと思い出したように言った。
「あ、茜音ちゃん。今、何時か分かる?」 「真帆のお迎え、行かなきゃ」
「えっと……」
茜音はバッグの奥にしまっていたスマートフォンを取り出した。
サイレントモードのまま、伏せていた画面を点ける。
その瞬間、胸がわずかに跳ねた。
――未読。
陸翔からのメッセージが、いくつも並んでいる。
指先が一瞬、止まる。
それでも、逃げるように画面を閉じることはできなかった。
【本当にごめん】
【でも、本当に何もなかった】
【お願いだから、話を聞いてほしい】
スクロールすると、さらに続きがあった。
【会社でトラブルがあって、明日から一週間、アメリカに行くことになった】
【帰ってきたら、必ず連絡する】
【無視しないでほしい】
画面を見つめたまま、茜音はしばらく動けなかった。
――アメリカ出張。
その言葉が、胸の奥に静かに落ちる。
不思議なことに、少しだけ、ほっとしている自分がいた。
一週間。 少なくとも、その間は、直接顔を合わせずに済む。
考える時間がある。 逃げる時間ではなく、向き合うための時間が。
茜音はスマートフォンをそっと伏せ、トランクを閉めた。
「……どうしたの?」
春奈の声に、茜音は顔を上げる。
「いえ、大丈夫です」 「行きましょう。真帆ちゃん、待ってますよね」
そう言って微笑んだが、胸の奥では、まだ未読の文字が消えずに残っていた。
一週間後。 そのとき、自分はどんな答えを出しているのだろう。
茜音は車に乗り込み、静かに目を閉じた。




