第17話
玄関を開けても、いつもなら駆け寄ってくる真帆の姿がない。
胸の奥が、少しだけざわつく。
靴を脱いでリビングへ向かうと、
そこには真帆以外の家族が、全員そろっていた。
「……ま、真帆は?」
恐る恐る尋ねると、
一緒に帰宅した春奈が答えた。
「今日はね、うちの実家に預かってもらったの」
その言葉に、茜音は小さく息を吐いた。
「騒動を起こしておいて、最初に聞くのが姪っ子のことか?」
啓介が、険しい顔で茜音を睨む。
「……申し訳ありません」
思わず頭を下げると、春奈がすぐに口を挟んだ。
「啓介さん、言い方」
「茜音ちゃん、ごめんなさいね。でも本当に、みんな心配していたのよ。だから、分かって」
その言葉に、茜音はもう一度、深く頭を下げた。
「何があったのか、説明しなさい」
父の一言で、場の空気が引き締まる。
茜音は、ゆっくりと話し始めた。
ホテルに行ったこと。
部屋で見た光景。
そして、自分がもう戻らないと決めたこと。
言葉にする内容は、今日すでに春奈に話したものと変わらない。
それでも、改めて口に出すたびに、胸の奥が静かに痛んだ。
話を聞き終えた父が、静かに尋ねる。
「この間ここに来たとき、様子がおかしかったのは、このせいなのか?」
その言葉に、茜音は一瞬、言葉に詰まった。
「……この間の件は、少し違うの」
「ただ、このまま子どもができなければ、離婚も視野に入れなきゃって思っていたところに……今回のことが重なっただけ」
少し間を置いて、茜音は続けた。
「……でもね、今になって思えば」
「子どもがいなくて、よかったと思うの」
家族の表情が、曇る。
「もし子どもがいたら、もっと、ずっと、ややこしいことになっていた気がするもの」
その言葉に、誰もすぐには返せなかった。
――ただ、今回のことで、少し分かった気がする。
私に子どもができなかったのは、
きっと、奈菜に子どもを産ませる未来のためだったのではないか。
そんな考えが、胸をよぎる。
「それで、お前はどうしたいんだ?」
父の声に、茜音はまっすぐ答えた。
「……私、陸翔と離婚しようと思います」
父は天井を仰ぎ、
母は驚いてお茶を落としそうになり、
兄は短く尋ねる。
「本気なのか?」
「うん。本気」
「もう決めたの。彼とは一緒にいない」
「ただ……事情を聞く限り、その……」
「本当に陸翔が浮気したとは、限らないだろう?」
啓介の言葉に、茜音は小さく息を吐いた。
「それは、確かにそうだと思う」
「でも、もしお義姉さんがホテルにいて、同じ状況でお兄ちゃんがその光景を見たら――
『誤解でした』で、済ませられる?」
茜音の言葉に、啓介は黙り込んだ。
「……茜音の気持ちも分かる」
「ただ、すぐに離婚というのは、どうかと思うぞ」
「まずは、陸翔君の言い分をきちんと聞いてからだ」
父の言葉に、母も静かにうなずく。
茜音の中では、
ここで自分が離婚を切り出し、
両親が賛成し、
話し合いが持たれて、そのまま離婚が成立する――
そういう流れを、どこかで思い描いていた。
なのに。
黙り込んだ茜音を見て、母が口を開く。
「離婚のことは、ゆっくり考えるとして……
しばらく、ここにいれば?」
父も兄も、考え込んだまま言葉を発しない。
「そうね」
「少し距離を置いたほうが、いろんなものがはっきりするかもしれないわ」
「家に帰ってきてもいいし、
もし嫌なら、私が大学時代に暮らしていたマンションが空いているから、
そこを使ってもいいしね」
春奈の言葉に、茜音は小さくうなずいた。
「……分かった」
父が、ゆっくりとうなずく。
「どうしても離婚したいというなら、茜音の好きなようにすればいい。
ただし、きちんと陸翔君と話をしなさい。
私たちが知る陸翔君は、そんな人ではない。
まずは、話し合いが先決だ」
「俺もそう思うぞ。陸翔は浮気なんてするような奴じゃない」
「ちゃんと話し合え」
兄の啓介が、強い口調で言った。
――私も、ずっとそう思っていた。
陸翔は、そんなことをする人じゃない。
誰よりもまっすぐで、不器用なくらい真面目で、
嘘をつくことさえ下手な人だと、信じていた。
だからこそ――
一度目も。
二度目も。
そして三度目も。
胸の奥で、何かが崩れていく音を聞いた。
信じていたものが、
目の前で静かに形を変えていくのを、
私は、何度も見てきた。
それでも――
どうしても、
陸翔がそんな人だとは思えない自分も、
どこかに残っていた。
「……うん。わかった」
茜音は、短く返事をした。
「母さん」
父が続ける。
「茜音に、当面の現金と家族カードを渡しておきなさい」
麻沙美は、静かにうなずいた。
「……分かりました」
茜音は、もう一度、深く頭を下げる。
「お父様、お母様、お兄ちゃん、お義姉さん」
「不肖な娘で申し訳ありません」
「ご迷惑をおかけしますが、よろしくお願いいたします」
家族は、誰も責めなかった。
その沈黙ごと受け止められたことが、
茜音にとって、何よりの支えだった。




