第16話
インターフォンの音で、茜音は目を覚ました。
一瞬、天井を見上げて息を詰める。 見慣れない部屋。
知らないカーテンの色。
――ああ、そうだ。
ここはホテルだった。
昨夜も、家に戻らず泊まったのだと思い出し、ゆっくりと身体を起こす。
胸の奥に残っていたざわつきは、不思議と薄れていた。
誰だろう。 そう思いながら、茜音は少し警戒してドアスコープを覗く。
そこに映っていたのは、義姉の春奈だった。
ドアを開けた瞬間、春奈の顔が目に入る。
切羽詰まったように青ざめ、今にも泣き出しそうな表情。
「……あ、茜音ちゃん……」
その声で、春奈の肩から一気に力が抜けたのが分かった。
茜音の顔を見て、ようやく安心したように息を吐く。
「よかった……無事で……」
「ごめんなさい。心配かけました」
春奈は首を横に振った。
「昨日の夜、家に陸翔くんのお母さんから電話があったの。
茜音ちゃんがいなくなったって、すごく焦った声で……」
電話をしてもつながらず、
義父母も、両親も、みんなで心配していたこと。 だから春奈は、
「心当たりがあるから大丈夫」と伝え、 朝一番でホテルに来たのだという。
「……心配かけて、ごめんなさい」
茜音は、素直に謝った。
「ここで立ち話もなんだし……」
「下のカフェで、モーニングでも食べながら話しましょう」
そう提案すると、春奈はうなずいた。
茜音は先に行ってもらい、浴室に入った。
シャワーを浴び、熱いお湯で頭を空っぽにする。
鏡に映った自分の顔を見て、少し驚いた。
相変わらずやつれた表情だったが、
目に、わずかだけれど力が戻っている。
――私、前を向かないと。
カフェに向かうと、朝食のいい匂いが漂っていた。
茜音は、三日ほどまともな食事をしていなかったことを思い出す。
それでも、なかなか箸は進まない。
「……もう少し食べないと、元気出ないわよ」
春奈が、心配そうに言った。
食事を終え、紅茶を前にして、
茜音は昨日のことを、ぽつりぽつりと話し始めた。
ホテルに行ったこと。 部屋で見た光景。
そして、自分がもう戻らないと決めたこと。
話を聞き終えた春奈が、静かに尋ねる。
「……もしかしたら、何もなかったのかもよ?」
茜音は、目の前の紅茶の表面を見つめていた。
「わからない。 ただ、目の前の光景が信じられなくて……
あそこに居たくなくて、飛び出しちゃったの」
そう言ってから、言葉を濁す。
「……ホテルに泊まったのは、薄々気づいていたから?
その、陸翔くんが浮気してるかもしれないって……」
茜音は、小さく首を横に振った。
「それは、ないの。本当に。 ただ、他にもいろいろあって……
ちょっと、一人になりたかっただけ」
春奈は、黙って聞いていた。
「茜音ちゃんは……どうしたいの?」
「これから、陸翔くんと」
茜音は、紅茶をゆっくりとかき混ぜながら、
「私は……離婚しようかと思うの」
「離婚?!」
思わず大きな声を出した春奈に、 茜音は慌てて周囲を見回す。
「そんなに結論を急がなくてもいいんじゃない?」
「少し時間を置いて……」
「今回の件だって、ちゃんと本人から事情を聞かないと。
誤解の可能性だってあるんだから」
――確かに、春奈の言葉ももっともだ。
昨夜感じた違和感。 それを確かめないままでは、
また間違えた選択をして、周囲を巻き込んでしまう。
茜音は、しばらく考え込んだ。
「お父様もお母様も、啓介さんも心配しているわ。
今日はこのまま、私と一緒に家に帰りましょう?」
春奈が、茜音の手を握りながら、優しく諭す。
「さっき、私からみんなには無事だって伝えたけど、
それでも心配してるのよ」
茜音は、小さくうなずいた。
春奈の車で実家へ向かう途中、
茜音は電源を切ったままだったスマートフォンの電源を入れ直した。
画面に並ぶ、メッセージの表示。
義母。 田口。 母。 春奈。 兄。
そして――陸翔。
これまで、陸翔が奈菜と関わったあと、
茜音に連絡してくることは一度もなかった。
……どうして、今回は。
胸がざわつく。
読む勇気が出ず、茜音は再び電源を切った。
代わりに、春奈のスマートフォンを借りて、母にだけ連絡を入れる。
「心配をかけてごめんなさい。 今からお義姉さんと帰ります。」
『わかったわ。お父さんと待ってるから安心して帰って来なさい。』
「うん。ちゃんと話すから。
それと、スマートフォンの調子が悪くて連絡できないから、
陸翔のご両親に“心配いらない”って伝えてもらえる?」
『わかったわ。事情は話しておくけど、
かなり心配していたから、あなたからもちゃんと話したほうがいいわ。』
母の言葉に返事をして、電話を切った。




