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第14話

茜音が出て行ったあと、部屋には妙な静けさが残った。

扉が閉まった音だけが、いつまでも耳の奥で反響している。


「……茜音ちゃん」


義母が名を呼んだが、返事はない。

義父は視線を落としたまま、何も言わなかった。


田口は、立ち尽くす陸翔と、ベッドの上で布団を握りしめる女を、交互に見た。

この場で自分がすべきことは何か。 秘書として部屋を整えるべきか。

それとも、何も見なかったことにするべきか。


「田口さん……」


義母の声に、田口ははっとして顔を上げる。


「奥様、私がロビーに連絡を——」


そう言いかけて、田口は言葉を止めた。 足元に、違和感を覚えたからだ。


カーペットの色が、わずかに違う。

照明の角度のせいかと思ったが、目を凝らすと、それは小さな赤だった。


——血?


田口は一歩近づき、思わず息を呑む。 点々と落ちた赤い跡。

量は多くないが、確かに“今”ついたものだ。


「……社長」


呼びかけると、陸翔はようやく足元を見下ろした。

一瞬、状況を理解できていないような顔をしてから、ゆっくりと眉をひそめる。


「……ああ」


陸翔の右手には、ペンが握られたままだった。

力が抜けきらず、柄の部分が白くなるほど強く。


それだけ言って、足に体重をかけ直した瞬間、陸翔は小さく息を詰めた。


「……っ」


声にならない声。 初めて“痛み”を自覚した人間の反応だった。


義父が一歩前へ出る。


「どういうことだ」


問いは短く、低い。 怒鳴り声ではない。 だからこそ、逃げ場がなかった。


陸翔は視線を彷徨わせ、右手のペンを見下ろす。

それがなぜそこにあるのか、自分でも分からないような顔だった。


「……分からない」


それだけだった。 理由も、経緯も、説明はない。

説明できる言葉を、本人が持っていなかった。


女が、か細い声を漏らす。


「ごめんなさい……私……」


言葉を続けず、布団を握りしめて俯く。

泣いているようで、どこか周囲をうかがっている。


義母は一瞬だけ奈女を見る。

だがすぐに視線を逸らし、床の赤へ、そして——空になった扉へと向けた。


「……どうしたらいいの……」


ぽつりと零れた声は、女に向けたものではなかった。


「茜音ちゃんに…… 私は、何を言えばいいの……」


責める言葉でも、庇う言葉でもない。

ただ、分からないという不安と戸惑いだけが滲んでいた。


義父は床の血から目を離さず、静かに言う。


「軽く見ていい状況じゃないな」


その一言で、部屋の空気が張りつめる。

女のすすり泣きが止まり、田口の喉が鳴った。


義父は視線を上げ、田口を見た。


「田口」


「……はい」


「すぐに車を回せ。病院だ」 「こいつを、このままにはしておけない」


陸翔は何も言わなかった。

ただ、ペンを握った右手を、わずかに強く握りしめる。


その直後、ふらりと身体が傾いた。

足に力が入らず、陸翔は思わず壁に手をつく。

白い壁紙に、額が触れるほど近く。


呼吸が浅く、乱れている。


田口は即座にうなずき、スマートフォンを取り出した。


「分かりました。手配します」


ロビー、車、救急外来。 指が迷いなく動く。


通話を終えて顔を上げると、陸翔は壁にもたれたまま、動けずにいた。

足元の血を避けるように、無意識に体重をずらしながら。


——無理をしている。


田口は、そう直感した。 立っていようとしているのではない。

立っているしか、できないのだと。


義母が深く息を吸う。


「あなたは、送っていきます。事情も伺いたいので」


女が顔を上げる。


「え……?」


奈菜は戸惑いながら一度義母を見たが素直に頷いた。


田口は最後に、もう一度床の赤を見た。 乾きかけた、小さな痕。


——これは、ただの修羅場じゃない。


そう確信しながら、田口はドアを開けた。


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