第12話
陸翔の実家の門をくぐった瞬間、茜音は背筋を伸ばした。
空気は冷たいのに、玄関の明かりだけがやけにあたたかく見える。
インターホンを押すより早く、扉が開いた。
「茜音ちゃん! 来てくれたのね」
義母の弾んだ声に、胸の奥がわずかに痛む。
大切にされているのは分かっている。
だからこそ――今日は、ここに長くはいたくなかった。
「お邪魔します。突然すみません。 お義父様にはワインを。ケーキも」
「まあ……本当にありがとう。ほら、早く上がって」
義母は箱を宝物のように抱え、嬉しそうに笑った。
その仕草ひとつひとつが、茜音の良心を静かに揺らす。
廊下の奥から、義父が姿を現す。
「おお、茜音か……今日は一人で?」
そう言いかけて、言葉が止まった。
義父は茜音の顔をじっと見つめ、眉を寄せる。
「……顔色が悪いな。何かあったのか?」
その一言に、義母もはっとしてこちらを見る。
「本当ね。ちゃんと眠れてる? あなた、我慢するところがあるから」
胸の奥が、きゅっと締めつけられた。 隠していたつもりだったのに。
「少し疲れているだけです。大丈夫です」
そう答えて微笑んだが、義母は首を振った。
「だめよ。そんな顔で“大丈夫”なんて。
あなたはもう、うちの娘なんだから」
その言葉が、重く胸に沈む。
政略結婚の“嫁”として迎えられたはずだった。
それでも今は、本気で家族として扱われている。
その事実が、茜音には何よりつらかった。
「夕飯、食べていきなさい。ね」
「はい。ありがとうございます」
食卓には、穏やかな時間が流れた。
「陸翔、本当に忙しいのね。 最近、顔も全然見せないし」
義母が箸を置き、少しだけ眉を下げる。
義父は、少し間を置いてから言った。
「責任の重い立場になったからな。 忙しんだろう」
茜音は、箸を動かしながら心の中で静かに整理していた。
――この人たちは、知らない。 そして、知らなくていい。
食後、義母がケーキを切り分けながら言った。
「陸翔がいないのが残念ね」
「……そうですね」
茜音は、口角だけで微笑んだ。
スマートフォンをテーブルの端に置く。
――これまでも、そうだった。
この時間。 決まって夜が深くなる頃。 秘書の田口から電話が入る。
「社長が体調を崩されて……」 「お酒を飲まされてしまって……」
「ホテルの一室で休まれています」
そのたびに茜音は、ひとりで迎えに行った。 そして――見ないふりをした。
義母が、ふと口を開く。
「ねえ……家庭のこと、ちゃんと向き合ってるのかしら」
義父は、低く言った。
「今は踏ん張りどころだ」
茜音は、心の中で
――あと少し。 この食卓の温度を、もう少しだけ上げて。
“家族”を、完全に味方につける。
スマートフォンを手に取る。
【今日は早く帰るからね】
――早く帰る。 何度も裏切られてきた、その言葉。
そして、まるで合図のように。 着信音が鳴った。
画面に表示された名前を見て、茜音は目を伏せる。
田口。
「……はい、牧田です」
「社長が度数の高いお酒を飲まされ、体調を崩されました。
急遽、会場近くのホテルの一室を押さえています。
奥様、至急来ていただけますか?」
――やっぱり。
「わかりました。すぐ向かいます」
電話を切った瞬間、義父と義母の視線が突き刺さる。
「どうしたの? なにがあったの?」
「秘書の田口さんからで……
陸翔が、お酒で体調を崩したみたいで。迎えに来てほしいと」
少し間を置いて、茜音は続けた。
「今日はタクシーで来ているので…… 車を貸していただけると助かります」
義母は即座に立ち上がった。
「……一緒に行くわ」
義父も、低く言う。
「酒に弱いのが分かっているのに、あいつは……」
茜音の胸の奥で、何かが静かに音を立てて崩れた。
――お義父様、お義母様。 ごめんなさい。
あなたたちを、利用します。
三人は急いで家を出た。 向かう先は、陸翔がいるホテル。




