第11話
ホテルに荷物を置くと、茜音はそのままエステに向かった。
いつもの担当者が、鏡越しに茜音の顔を見て、思わず声を詰まらせる。
「……お疲れ、出てますね」
それだけで十分だった。
事情を聞かれなくても、触れられなくても、分かってしまうほどに、今の自分は消耗している。
施術が終わる頃には、血の巡りが戻り、身体も少しだけ軽くなった。
鏡に映る顔は、昨日よりはまともに見える。
それでも、満たされた感覚はなかった。
ホテルに戻り、ルームサービスで食事を頼む。
テーブルに並べられた料理を前にした途端、食欲が失せた。
サラダを少しだけ口に運び、それ以上は手をつけられない。
早めにベッドへ潜り込んだが、身体は疲れているはずなのに、頭だけが冴えていた。
何度も寝返りを打ち、ようやく意識が沈みかけた、その瞬間――
夢を見た。
まず、一度目の人生。 あの家。
陸翔と奈菜が並んで笑い、茜音だけが、少しずつ居場所を失っていく日々。
拒まれ、追い詰められ、心が擦り切れていく感覚。
焦げた匂いと、遠くで鳴り響くサイレン。
逃げ場のない絶望の中で、自分が終わっていく。
次に、二度目の人生。
「今度こそ」と必死で抗ったのに、結局、二人は出会ってしまった。
陸翔を止めるために飛び出した夜の道路。
白いライト。衝撃。宙に浮く身体。 冷たくなっていく感覚。
そして、三度目の人生。
「そばにいられるなら」と、すべてを飲み込もうとした自分。
奈菜の妊娠を知った瞬間、未来が完全に閉ざされた。
屋上の縁に立ち、風に煽られながら思った。 ――もう、昔には戻れない。
落下する感覚と、最後に誓った言葉。
目が覚めたとき、茜音は大きく息を吸っていた。
熟睡とはほど遠い、重たい朝だった。
枕元のスマートフォンを見ると、通知がいくつも溜まっている。
【そっちは楽しい? 体調はどう? 俺はさみしくて寝れないかも】
【おはよう。ゆっくり寝れたかな?
今日も打ち合わせがあって夕食は一緒に食べれそうにない】
【茜音に会いたいよ】
【明日からは夕飯一緒に食べれるからね】
【茜音の作ったごはんが食べたいよ】
【今日は早く帰るからね】
最後の一文を見て、茜音は小さく呟いた。
「……あなたは、今日は帰ってこないくせに」
画面を伏せ、ほんの一瞬だけ迷ってから、短い返信を打つ。
【おはよう。飲みすぎないでね。仕事がんばって】
それ以上の言葉は、打てなかった。
しばらくして、今度は春奈からのメッセージが届く。
【今、大丈夫?】
【うん。大丈夫】
直後に、着信。
「茜音ちゃん、今どこ?」
一瞬、迷う。
「……家にいるけど」
「嘘つかないで。今、マンションにいるんだけど」
静かな声だったが、逃げ場はなかった。
「……ホテルにいる」
「分かった。今から行くから、待ってて」
それだけ言って、通話は切れた。
ほどなくして、春奈が部屋にやってくる。
「昨日、家に帰らなかったの?」
小さく頷く。
「昨日の様子、おかしかったから。 陸翔さんと喧嘩したの?」
「してない。陸翔には、実家に泊まるって言ってある」
春奈の顔を見られず、視線を落とす。
「ねえ、正直に教えて。何があったの?」
「……何があったわけじゃないの。
ただ、少し息が詰まって。一人になりたかっただけ」
春奈は、信じていない目で茜音を見つめた。
「私は……そんなに頼りにならない?」
慌てて首を横に振る。
――違う。 まだ起きていないことを、誰にも話せないだけだ。
「今日は、陸翔の実家に顔を出すことになってるから。心配しないで」
春奈はしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……何かあったら、絶対言うのよ。一人で抱え込まないで」
その言葉に、茜音は素直に頷いた。
昼になり、春奈の提案でホテルのレストランでランチを取る。
食後、義父の好きなワインを思い出し、そのままマンションに立ち寄ることにした。
ワインセラーから一本選び、振り返ったとき――
視界に入ったのは、ランドリーボックスの中のジャケットだった。
先日の夜、ワインがかかったままのもの。
取り出すと、かすかに匂いが残っている。
胃の奥が、ひくりと痙攣した。
茜音は黙ってゴミ袋を広げ、ジャケットを放り込む。
揃いのパンツも、その日に締めていたネクタイも、すべて一緒に。
――見たくもない。
ゴミを捨て、部屋に戻る。
ワインを手に取り、静かに玄関を出た




