表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/22

第1話

三度、私は同じ絶望を見た。


 時折、身を切るような強い風が吹き上がる。


 茜音は屋上の縁に立っていた。

 足元のコンクリートは夜露で冷たく、靴底越しでもその感触が伝わってくる。


 ――ここまで来てしまった。


 愛する夫、陸翔。

 その人と離れたくなくて、水川奈菜との関係を黙認した。


 最初は「一時の迷い」だと思っていた。

 次は「いずれ終わる」と自分に言い聞かせた。

 そして最後には、「陸翔のそばにいられるなら」と、すべてを飲み込もうとした。


 けれど。


 陸翔は奈菜を家に住まわせた。

 それだけでも胸が裂けそうだったのに、決定的な言葉が突き刺さった。


 ――子供が、できた。


 自分が、どれほど切望してきたか。

 どれほど願い、どれほど祈ってきたか。


 その子を、奈菜が――。


 喉の奥が詰まり、息がうまく吸えない。

 何度も泣いた。もう枯れたはずなのに、涙は止まらなかった。


 結局、自分は何ひとつ変えられなかった。  夫も、未来も。


 守りたかった両親たちも、守れなかった。


 下から舞い上がる強風が、茜音の身体を大きく揺らす。

 一歩、重心がずれただけで、すべてが終わる距離だった。


(もし……)


 もし、次があるとするなら。


(もう、陸翔はいらない)


 愛していた。  確かに、心から。


 でも、もう疲れた。


(自分を守る。家族を守る)


 これ以上、誰かの選択に人生を壊されたくない。


 夜の闇に向かって、そっと息を吐く。


「さようなら、陸翔」


 次は、私から手を放す。


 茜音は、そのまま暗闇へと身を投げた。


 ――はっと、息を吸い込む。


 茜音は勢いよく目を開け、身体を起こした。

 胸が苦しい。呼吸が早く、浅い。


 気づけば、頬を濡らすほどの涙が流れていた。


 震える手でシーツを掴み、必死に息を整えようとする。


 ふと、隣に視線を向けた。


 そこには、陸翔がいた。


 穏やかな寝息。  何も知らない、幸せそうな顔。


 ――また、帰ってきてしまった。


 額には汗が浮かび、前髪が張り付いている。

 両手で涙を拭い、もう一度、陸翔を見つめた。


 込み上げる感情を抑えきれず、思わず彼の額を軽く叩く。


「……いたいよ……どうしたの?」


 陸翔は目を開けることもなく、眠そうに呟いた。


「蚊がいたのよ」


 茜音がそう言うと、


「こんな時期に、蚊なんている?」


 気の抜けた声が返ってくる。


「……もういなくなったから。ゆっくり寝て」


 そう言って、そっと陸翔の髪を撫でた。

 指先に伝わる体温が、胸を締めつける。


(もし、次がまたあるとするなら)


(もう、陸翔はいらない)


 自分を守る。  家族を守る。


 それだけを、今度こそ選ぶ。


 愛していた。  けれど、もう疲れた。


(次は、私から手を放す)


 茜音は音を立てないよう、静かにベッドを抜け出した。


 夜はまだ、深かった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ