6 最低な男
わたしのアパートに着く頃には、体は冷え切っていた。二月の夜、時折吹く風は痛いほどで、けれど繋いだ手は暖かくて、わたし達はほとんど喋らなかった。
「どうぞ」
「お邪魔します」
一緒に部屋に入りながら、わたしは目についた物を片っ端から片づけていく。脱ぎっぱなしのパジャマに、散らかしたままのメイク道具。届いたまま開けずに放置している通販の箱は端に寄せる。
「全然キレイじゃん。俺の部屋のほうが散らかってる」
「いや、普段はもうちょっとキレイなんだよ」
今朝使用したお皿とマグカップは洗って水切り籠の中にあることにホッとする。時間がない日は帰ってから洗おうと、流しに放置してしまうこともあるから。
エアコンが狭い室内を温めだした頃、やっとコーヒーを小向が座るローテーブルの上に置いた。それでもまだわたしは落ち着かなくて、渡せるかもわからないまま買ったあからさまに気合の入った本命チョコを出そうと、小向に背を向けた。
「桂木」
「うん」
「座ってよ」
「うん、ちょっと待って」
チョコが思っていた場所になくて、わたしは焦って小向に適当な返事を返す。こっちかな、となんでも仮置きしてしまう場所にチョコを見つけて、ホッとする。
振り向こうと腰を上げたところで、後ろから抱きしめられた。
「好きなんだけど」
ボソリと、小向が言う。
「なんか、ずっと、好きなんだけど」
普段の小向の声はよく通って聞き取りやすいのに、ぼそぼそと不貞腐れたように告白をした彼が愛おしかった。
抱きしめられたまま体をよじって、彼のほうを向く。
「わたしも、好き」
ぎゅうっと強く抱きしめられて、嬉しくなる。顔を上げると、唇が重なった。口づけはだんだん湿り気を帯びて、小向の瞳には熱が籠っていた。
真冬の朝はベッドで布団にくるまっていても寒いというのに、今朝はなんだかあったかい。幸せな気持ちで目を開けると、小向がわたしの頭を撫でていた。
一気に目が覚めたわたしに、小向は「おはよう」と言う。朝からなんて爽やかなんだろう。ドキドキが止まらない。
長く続いた恋を手放して、次の恋が始まってもいつか終わりが来るのが怖いと進めずにいた昨日までのわたしに、この幸せを教えてあげたい。
小向を家に誘う予定なんてなかったわたしの家の食料は乏しくて、それでもいいと言ってくれたから、本当にいつも食べている朝食を準備した。
チーズを乗せて焼いた食パンと、水で溶かした青汁。
オシャレなサラダもキレイな形のオムレツもない朝食を小向は「いただきます」と言って食べてくれた。それどころか、水で溶かしただけの青汁を見て「意識高いね」なんて言う。
シャワーを浴びて朝食を食べ終えた小向は、わたしのビッグサイズのトレーナーを着ている。彼に合うズボンはさすがになくて、昨日履いていたスラックスを履いた。
このままでは出掛けられないし、週末まとめ買いをするわたしのうちに食料はほとんどないから「お昼どうしようか」なんて言いながら、まったりと時間を過ごす。
「最近、なんかそっけなくなかった? 仕事忙しかった?」
わたしの髪をいじりながら話す小向はなんだか可愛い。寂しかったのかな、と彼を可愛く思う。
「後輩がね、友達の結婚式の披露宴に行ったらしくて。表参道の有名な所」
気持ちを確かめ合った今では笑い話になるだろうと、橘ちゃんから聞いた話を話題にする。
「そこで小向を見かけたって言ってたけど、人違いだよね?」
「いや、俺で合ってると思う。打ち合わせで行ったことある」
「打ち合わせって、結婚式の?」
「そう。明日の結婚式の」
後ろからわたしを抱きしめたラブラブ状態で、この男は何を言っているのだろう。頭が真っ白になる。
「だから、今日は早めに帰るね」
そう言って名残惜しそうにわたしの頭に頬ずりをする男の腕から、わたしは這い出す。
「帰って」
「まだ大丈夫だけど」
きょとんとした顔の小向の前に、彼のコートや服を準備してやる。
「わたしが大丈夫じゃないから、帰って」
頭ではまだ情報を処理しきれていないけれど、目の前の男が最低なことはわかった。なかば無理やり、小向を部屋から追い出す。
「あとで連絡するから」
彼の言葉に返事はせずに、ドアをバタンと閉める。
大きく息を吸って、吐く。ドアに背をつけ、ずるずると玄関に座り込んだ。
こんなことってあるだろうか。
気持ちを自覚して、両想いだとわかって、幸せな朝を迎えたというのに。
明日は他の人と結婚するという。
目が熱くなって、涙が出た。バカみたいだ。当たり前のように罪悪感なく二股をするような男のことで、あんなに悩んでいたなんて。
誠実で優しい人だと思っていた。わたしにはもったいないような出来た人だと。
彼に振られる未来があったとしても、まさか自分が二号さんになるなんて、想像したこともなかった。
その日も、次の日も、小向からメッセージが届いたけれど見なかった。電話の着信も無視をする。
週末は部屋に引き籠って、デリバリーのピザを食べながら、小向の悪口を泣きながら言った。
明日は休んでしまおうかと思ったけれど、橘ちゃんから引き継いだ資料を提出しなければならない。当の橘ちゃんからインフルエンザだったお知らせが届いたので、彼女が休む分のフォローも引き続き必要だろう。
瞼をアイスノンで冷やしながら、それでも好きだった、と思う。
女性関係はクズ野郎だったけれど、仕事は真面目で礼儀を欠かさない、話をしていて楽しくて恰好良かった。
アプリを起動させて、飛行機のエンジン音を聞く。深呼吸をして、その音だけに集中する。車や電車ではダメだった。なぜか飛行機のエンジン音が、一番わたしを落ち着かせてくれた。
大丈夫。きっとこれが最後の恋じゃない。
ドキドキしたし、楽しかったし嬉しかった。最低な終わりだったけれど、引きずるよりずっといい。
大丈夫、きっとまた恋が出来る。
優紀と別れた時は、もう恋愛には縁がないかもしれないと思った。けれど、小向を好きになって終わったことで、今は次の恋がきっとあると、そう思える。
小向、ありがとう。とは言えないけれど、わたしはどこか前向きになれていた。
休みが終わり、また月曜日が始まる。
橘ちゃんが休みのため、仕事はなかなか忙しかった。自分だけが彼女のフォローをしているわけではないけれど、普段から細々とした仕事を積極的にしてくれていたんだな、と今更ながら実感して感謝の気持ちが沸きあがる。
復帰してきたら「いつもありがとう」と言おうと心に誓う。
忙しい一日が終わり、帰り支度をして会社を出る。
仕事だけではなく、社内で小向に遭遇したくなくて気を張っているから、なおさら疲れていた。残業時間になると社内に人は減ってしまい、小向と鉢合わせした際に逃げられない気がして、どんなに忙しくても定時で上がれるように頑張っていた。おかげで余計なことを考えずに仕事に集中できて良かったかもしれない。
会社から出ると、人待ち顔の青年と目が合った。大学生くらいのカッコいい男の子は私を見て、ガッカリとした顔をする。待ち人ではなかっただろうけど、失礼ではないか、と思いながら通り過ぎた。
「すみません!!」
振り向くと、わたしを見てガッカリしたはずの男の子だった。その男の子が、どうみてもわたしに声を掛けている。




