閑話 美貌の役人の嬉しかったこと
ソユン視点です!
けっこうご機嫌です(*´ヮ`*)
(また何か心配してくれているのかな……)
書物館の応接室から退出する間際、美貌の首席補佐官は部屋に残る顔見知りの女官をちらりと振り返った。
された会釈が、心なしかしおしおとして見える。
しかし、この後に控える会議と自分を待っている部下たちがいて、彼女も大丈夫だと言うので、彼女に帰りの馬車を手配しつつ、自分の執務室へ戻ることにした。
晩夏の折、まだじりりと焦げ付いた日差しすらソユンを明るく照らす光となり、生ぬるい風も涼しげに髪を揺らすばかり。
ふわりと漂った清らかな残り香には、通路の隅で頭を下げていた文官が思わず振り返った。
気持ちがいっぱいいっぱいになってしまったメイメイに対して、颯爽と歩くソユンの心は軽やかだ。
最近、彼の仕える王子殿下が彼に小さな隠し事をしているようで、仄かに気がかりだった。
その隠し事の正体が、意外にも年下の女官の口から明かされたので、ソユンは今晴れやかな気分なのだ。
(赤毛ちゃんに会いに行かれていたなんて、全く想像もしていなかったけれど……)
王子から格別な信頼を置かれるこの青年は、王子の公務全般から私生活に至るまでの諸々を、基本的にすべて共有されている。
もちろん、彼自身も王子の周囲には特に気を配っているつもりである。
しかし、先日近衛隊の指導に出掛けていた王子が戻ってきた際に、仄かに違和感を覚えた。
戻ったぞと声を掛けてきた主は、いつもと変わらない表情ではあった。
しかし、おそらく口留めをされたのであろう侍従の、かすかな後ろめたさが滲みでた態度を見て、その違和感は簡単には流せないものになったのだ。
そしてその表情から推測するに、罪悪感の対象はおそらくソユンである。
王子が意図して彼に知らせようとしないことだからと敢えて探りはしなかったものの、そんなことは滅多にないので、大抵のことはすぐ切り替えができる彼も、最近は少し考えあぐねていた。
その秘された特定の時刻と、先ほど彼女が言及した時期は、ちょうど重なる。
問題は王子の意図がはっきり掴めないことだが、ひとまずそれは置いておくことにした。
王子が何をしていたのか把握しただけで、今は十分だ。
会議から戻ったソユンは、数日不在にする王子の代わりにいくつかの事務処理を行い、部下からの報告を受けながら指示を出す。
そうして仕事に一区切り付け、資料をまとめる文官の一人を待つあいだ、今日あった出来事をぼんやり思い返した。
朝から記憶を辿っていくと、やがて、赤毛のきれいな女官との時間に行き着く。
必死に言葉を言い募ったり考え込んで難しい顔をしたりする様子が、初めて出会った時を想起させた。
いつも賑やかな彼女だが、今日は特に気分の浮き沈みが忙しなかったように思う。
幼い頃から多くの人々に囲まれてきたソユンでも、その少女との出会いはそれなりに鮮明な印象を残すものだった。
よりにもよって王族の居住区域を歩き回っては探るような挙動をするので不審な人物かと思いきや、辺りを見回して心細そうな困りきった顔になる。
そのころころ変わる表情は宮廷では見ないものだったから、つい立ち止まり、ほんのひととき眺めてしまったのを覚えている。
(それなのに、僕と目が合ったら、瞬きさえも止めて急に大人しくなった。考え事があるとそれだけにのめり込んでしまう一心さは、ようやく餌にありつけた空腹の小動物みたいでちょっと可愛いけれど)
静止する声をまるっと無視する侵入者という立場でありながら、悪意も疚しさもまるで感じさせない純朴な表情でこちらを振り返った。
そして、なぜか目を輝かせて凝視してきたのだ。
よほど肝が据わっている娘かと思いきや、状況を把握した途端に、こちらが驚くほど震え上がって萎縮してしまった。
事情を聞くと、まるで方向違いの迷子になっていて、嘘みたいな非常事態にも見舞われているのだから、不運が重なり大変だったねと労ってやりたくもなる。
あの時はその狼狽ぶりを可哀想に思って道案内を申し出たが、その縁がこれほど続くとは思ってもいなかった。
出会いとは、なんとも不思議なものである。
今は妹を見守る、兄の心情に近いかもしれない。
いつも満面の笑みで話しかけに来てくれる、癒しの存在だ。
「ソユン様、何かよろしいことでもございましたか」
なんてことを考えながら提出された資料の確認をしていると、好々爺然とした事務官が声を掛けてきた。
それこそソユンが初めて宮廷を訪れた時からの付き合いで、ちょっとしたことにもすぐ気がつく人だ。
「いっとう朗らかな表情をなさっていましたね。 ご機嫌麗しいようで、我々も嬉しいですよ」
「ははは、本当にソユン様の笑みは場が華やぎますね。 今日はいいことがありそうです」
同じ部屋で仕事をしていた他の仲間も口々に話し出し、皆いつも以上ににこやかだ。
ソユンの立場上、一緒に仕事をするのは役職の高い官僚に限られており、年齢は親子ほど離れていることも多い。
向けられる視線はソユンの心情の機微を鋭く見抜き、子供を見守る親のようでもある。
先ほどは顔見知りの女官のことを妹のように例えたが、もしかするとそれとそう変わらない目で日々見守られているのかと思うと、少し気恥ずかしい。
手元を見る。
仕事はすべて片付き、緊急の案件もない。
王子は軍の訓練のため数日不在で、ここにいる補佐官たちも、もうまもなく作業にきりがつくだろう。
「よし、じゃあ定刻には早いけれど、今日の仕事はもう終わりにしようか。これも皆のいいことになるといいけれど」
「お帰りなさいませ、ソユン様。 顔が火照っていらっしゃる。 少しお酒を召されましたか?」
「うん。………久々にゆっくり飲んだから、頭がぼんやりするな」
「酔い醒ましをご用意します。 湯浴み後にお飲みください」
「ありがとう」
夜、馬車を降りると、家令がいつものように玄関口まで出迎えに来る。
今日あった出来事の報告と、何事もなく平穏だった旨を告げてくるので、頷いて応えた。
身体が重く、入浴は手短に済ませてしまおうと思っていたが、元々実家での世話役だった家令はそんなソユンの怠惰をすぐに察知した。
先んじて浴槽に香油を垂らしたり浴室に伴う人を手配したりと、忙しそうだ。
家令から指摘された通り、仕事のあと、せっかくだからと酒の場に誘われて、飲んできたのだ。
いつものように嗜む程度に留めていたつもりだったが、珍しく抱えていた心配ごとが晴れ、浮かれていたのかもしれない。
皆も楽しそうに酒を飲み進めていて、その様子を眺めながら、いつもより少し多めに飲んだような気もしてきた。
ソユンは酒にそれほど強くない。
日常的に口にする訳では無いし、宴などでも大した量は飲まないのだが、今日はそういうわけでやや酔いが回っているように感じる。
かといってふらつくほどでもないのだが、浴場では心配性の使用人たちが待機しており、香りのいい湯に浸かると手際よく身体を清められ、あっという間にあとは寝るだけのすっきりした佇まいとなった。
さらに手を貸そうとする使用人に大丈夫だと告げると、一人自室に戻り、窓辺にある椅子に腰掛けた。
背もたれに頭を預けて気怠く空を見上げると、雲に隠れて仄かに輝く月が見える。
薬を持ってきた使用人が訪れ、退室していくと、しんと静寂が広がった。
仕事をするには頭は回らないし、それでいて中途半端に頭が覚醒しているため眠るまでには至らない。
明日の出仕は遅い時間なので、寝るまでの間、適当な考え事にふけることにした。
(思い返すのは今日あった出来事にでもしようか)
今日は二度目の振り返りとなるが、緩慢な思考では、他のことを考えるのは少し億劫だった。
―――殿下に抱かれているのは本当のことだよ
聞かれて、そう答えた。
混乱して戸惑ってはいたけれど、あの娘の顔には嫌悪も否定の色もなくて、なんとなく嬉しくなった。
自分への評価がどうであろうと、実害がなければさほど問題ではない。
でも、物語のような恋愛に憧れているあの娘の、無邪気な夢を壊すようなことはしたくなかったのかもしれない。
彼とその主であるジフンは、おそらく彼女が考えていたような、甘く空想的な関係ではない。
ソユンの主へ向ける感情をもし一言で表すなら、忠誠や尊敬だろうか。
王子殿下からも、信頼されている自負はある。
二人の関係は職務と割り切るような冷たく無機質な間柄ではないし、かといって恋い慕い相手の愛を求めて縋るような感情的なものでもない。
どんな手段を講じてでも支えたいというソユンの思いと、それを理解するジフンによる合理的な判断が、今この状況へと導いたというだけの話である。
そして、そこには客観的に見て親密な行為も混ざっているけれど、その結びつきを恋愛と表現するのは少し違う、とソユンは考えている。
ただ、その感覚を分かりやすい言葉に落とし込むのが難しいということは、今回初めて知った。
今まではその必要性を感じたことがなかったが、あえて純粋で夢見がちな娘に説明しようとするには、言葉選びに多少の慎重さは必要なようだ。
(赤毛ちゃんはもしかすると、僕の交友関係について心配しているのかもしれないし……)
最近何かと質問されるようになったが、たまに憂い交じりの視線を向けられるのだ。
彼女の夢が壊れてしまうようなことを言ってしまってはいないだろうかと、少し考えながら話してはいる。
ソユンは、親しい女性が愛を囁いてくれるのを嬉しく思うし、喜ぶ顔が見たいとも思う。
仕える王子殿下のことは言うまでもなく、心から敬愛し、憂いを取り払いたいと考えている。
自身の親兄弟には親愛を抱いていて、何かあれば迷わず手を差しのべると心に決めている。
宮廷では好ましい仲間も、そうではない者もいる。
だから、ある程度好意というものを知っているし、関係を深めていく中で、時には相手を求める強い想いが生じることもある。
けれど、幼い頃から主に忠誠を誓ってきたソユンの心は、結局のところ主と家族とそれ以外という振り分けがされていて、その他にあたる事柄に自分を捧げてしまうほどの余裕はない。
そして、主は彼が忠義を尽くす対象であって、何かの見返りや感情を求め、独り占めしてしまいたいと思う相手ではない。
ということで、おそらくソユンは恋というものをよく知らないまま生きてきた。
意識したことがなかったので最近至った考えだが、きっと少女が好む物語のような心を抱いたことは、ないような気がするのだ。
だから、恋をしているから手を握ったり親しいことをするのだという彼女の感覚を、きちんと理解できない。
しかし、その思いを大切にしてあげたいと思っている。
(まあでも、僕の回答に時々衝撃を受けたような顔をしているから、うまくいっていない可能性もあるんだけれど……。 こればっかりは自分でも普段触れない話題だから、少し難しいな………)
こうやって一介の女官のことを、本人が目の前にいない時でも長らく考えているのは、ソユンにしては珍しい。
今日はよく頭を過ぎっているということに気付いて、かすかに口元が笑みの形を作った。
(やっぱりこう、小さな妹を持ったみたいで可愛いからかな……? 放っておけないというか、構いたいというか)
最初は特に気に留めなかったが、公園なり宮廷の通路なり、何かと先回りしてゆく所で待っている彼女に気付いてから、その気持ちが強まった気もする。
自分に何かしてほしいと望むわけではなく、それでいて声を掛けると息をつく間もなく話してはしゃぐ彼女には、ぶんぶんと振られる尻尾が見えるかのよう。
あそこまで素直に懐いてくれると、ついつい可愛がりたくなってしまう。
静かな夜に、鈴虫の鳴き声が響き渡る。
心地よい眠気を感じ始めたので、寝台にゆっくり身体を横たえる。
馴染みの女官との出会いを思い起こしたからか、ジフンとの出会いや思い出が次々と頭に過ぎり、仄かに感傷的な気分になってきた。
きっと今夜夢を見るとしたら、それは懐かしくも暖かいものだろう。




