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「余計なことはするな」と言われましたが、冷血王子の心を溶かしてしまったようです。


 ――お金って、どうして私から逃げていくんだろう。


 アークレイン王国の王都。その片隅にある、家賃の安さだけが取り柄の薄暗い下宿の前で、私は溜息をひとつ吐いた。


 今日だけで三回目の溜息だ。もう溜息だけで、身体が空気の抜けた風船のようにしぼんでしまいそうだ。いや、しぼんでいるのは気分のほうか。


 玄関でうなだれている理由は単純明快。


 ――仕事をクビになったのである。


 よりにもよって、真面目さしか取り柄のない私が、王城書庫の検閲官をクビにされたのだ。公式文書の誤字脱字を見つけては、えらそうな役人たちにさっくり提出し、彼らの顔を引きつらせるのが私の唯一のスキルだったのに。



「なんで私が書類紛失の濡れ衣を着せられてるのよ……っ」


 身に覚えのないミスをなすりつけられ、弁明のチャンスもなく解雇された。私はいつも通り、確実に書類を提出したはずなのに。結果――“重大な業務怠慢”として罰金刑。貧乏な庶民には到底払えない額で、借金として上乗せされる形になった。


「きっと誰かが無くしたんだわ。それを私の所為にして……って、今さら言ってももう遅いか」


 家の玄関ドアを開けると、廊下に散らばる”借金を返済しろ”という文面の督促状(とくそくじょう)が視界に入り、胃がきゅう、と痛む。


 働き口はない。貯金もない。彼氏もない。ないない尽くしのオンパレード。


 ……そして、借金だけは山ほどある。

 本当なら、こんな額を抱える人生になるはずじゃなかった。元々うちは貧乏で、学費を払うのも大変な家庭だったけれど――必死に勉強して、王城書庫の検閲官になった時、ようやく“貧乏生活から抜け出せる”と思ったのに。



「はぁ……これからどうしよう」


 思わず視線を落とすと、督促状の下にあったチラシが目に入った。


『高給。好待遇。住み込み可。――王太子殿下の“介護人”募集』


「……介護人、ねぇ」


 普通なら絶対に選ばない職種だ。むしろ避けて通る。なぜなら“一カ月前に殿下が毒に倒れて四肢マヒになった”という不穏すぎる前提条件付きだったから。


 さらに悪いことに、殿下の専属介護人は次から次へと心を病んで辞めていく──という恐ろしい噂まで囁かれていた。


 それは単に殿下が鬼のように冷血だからなのか、再び殿下が命を狙われる可能性があって危険だからなのか――それは私にはわからない。



「普通の人間なら、誰もこの仕事をしようとは思わないわよね。でも――」


 私は紙に書かれた“高給”の二文字に負けた。


(……背に腹は代えられない。)


 こうして私は、“王太子殿下の介護人”という危険度MAXな仕事への応募を決意したのだった。



 ◆


 数日後、無事に(?)採用された私は王城の豪奢な廊下を歩いていた。緊張している? もちろん。私の心臓は、昨日の夜からずっとドキドキしっぱなしだ。


(怖い……けどやるしかない。やらなきゃ死ぬ。借金的な意味で。)



「こちらです」


 案内役の侍従は驚くほど無感情だった。まるで“王太子の世話係なんて何年もやってたら、そりゃこうなるよ”と言わんばかりに表情筋が死んでいる。


 侍従が扉を押し開けた瞬間、冬の空気みたいな冷気がふわりと頬を撫でた。


 その部屋の中心に――彼がいた。


 アレイス王太子。


 椅子に身を預け、動かぬ身体のまま、ただ静かにこちらを見つめるその双眸。氷点下どころか、視線だけで凍傷になりそうだ。


(ひええ……なにその眼光。私、まだ何もしてませんよね?)



 侍従は頭を下げるとすぐ退室した。その背中が「お前も今日から地獄へようこそ」と言っているように見えたのは気のせいだろうか。


 逃げたい。怖い。帰りたい。でも借金が私を逃がしてくれない。


 覚悟を決めて一歩踏み出した瞬間、殿下の低い声が落ちてきた。


「……俺に社交辞令は不要だ。言われた仕事だけしろ」


 第一声がこれである。


(もっとこう……“よろしく”とか“助かる”とか……いや期待してなかったけど!)


 とはいえ私は、真面目に働かないと生活が詰む身の上だ。ぐっと堪え、丁寧に頭を下げた。



「では最初に申し上げます。私はそんな“雑”な仕事はしません。たとえ殿下が嫌がったとしても」


 アレイスの眉がぴくりと動く。


(あ、今“俺の何が分かる”って顔した)


 けれどこちらも引くわけにはいかない。真面目さだけが私の武器だ。



 しばしの沈黙のあと、殿下は諦めたように短く息を吐いた。


「……好きにしろ。ただし、余計なことはするな」


「あ、あの? 具体的な仕事の内容は……」


「そこの机の上にある紙を読め」


 それだけ言うと、殿下は口を固く閉じて、そっぽを向いてしまった。

 説明はしてくれないのですか?という問いは、怖いので口には出さない。


(あぁもう! 前途多難すぎるっ……!)


 こうして、私と冷血王子アレイスの最悪な第一歩が始まった。



 ◆


 仕事開始から三日後。私は自分の“仕事”が想像していた介護と全然違うことに気づいた。


 普通、介護といえば水を飲ませたり、体を拭いたり、食事の補助をしたり。そういうものを想像するだろう。私もそうだった。


 だが実際に任されたのは――



「官僚とのやり取りをすべて書き取れ。議事録としてじゃないぞ。後で資料として読み返せるよう整理し直せ」


 机の上に積み上がる書類の山。そして淡々と命じる氷の王子。


(……いや、どこが介護? これ執務補佐じゃないの?)


 私は心の中で盛大に突っ込みながら椅子に腰を下ろす。

 机には、前任者が書いたであろうメモが散乱している。どれも字が乱れに乱れていて、読むだけで目が痛い。おそらく殿下の話すペースが速すぎるのだろう。紙の端にうっすら涙の跡があるのは……前任者の遺した苦悩だろうか。


 だが私は元・公文書検閲官。誤字脱字や論理のほころびを整え、要点を組み直すのはむしろ得意分野だ。



「……はい。最適化、ですね。承知しました」


 早速やってきた官僚との会話を聞きつつ、ペンを走らせる。すると、久々の“仕事の感覚”が指に蘇った。


(あ……これ、楽しいかもしれない)


 黙々と書類を整えていると、時折殿下が低い声で指示を飛ばす。


「その文は回りくどい。三行削れ」

「そこは“王命”と明記しろ」

「数字は一桁ずつ確認しろ。閣僚連中は間違えばつけ込んでくる」


 ……頭の切れ味が恐ろしい。まるで私が次になんて書くか分かっているかのようだ。時には先読みして口を出すこともあった。


(この人、動けなくても私より余裕で有能……)



 仕上げた文書を差し出すと、アレイス殿下は視線だけで内容を追い、わずかに目を見開いた。


「……悪くない」


 たった一言なのに、思わず頬が緩みそうになった。


(えっ、これ褒められた!? 氷の王子に!?)


 追い打ちのように、殿下は淡々と続けた。


「……お前、文官としては並より上だな」


(並より上!? そんな評価、前職でも貰ったことないのに!!)



「今後も文書はお前に任せる。介護は侍従にやらせろ」


(いや私、介護人として雇われたはずなんだけど!?)


 突っ込みたい気持ちを飲み込みつつも、胸の奥で静かに何かが灯った。


(でもこの人……私の仕事を“認めてくれた”んだ)


 氷の仮面の奥の瞳が、確かに私を真っ直ぐ見ていた。


 それは、王太子という身分差をほんの一瞬だけ忘れさせるほど、澄んだ眼差しだった。



 ◆


 王太子アレイス殿下の“介護人(という名の雑務係)”を拝命してから、早くも一カ月が過ぎた。


 書類整理や文官仕事はすっかり私の担当になった一方で、本来なら免除されたはずの介護まで、いつの間にか継続するのが当たり前になっていた。



(……最初の頃なんて、手を差し出した瞬間に払われたのになぁ)


 例えば、手を拭くために布を持って近づいた時。

 以前なら氷点下の視線で「触れるな」と拒絶されていたのに、今では無言で手を預けてくれる。


(なんか……昔、野良で飼ってた犬を思い出すんだけど)


 気まぐれで、すぐ逃げるくせに、懐く時はやたら素直で。

 あの子も最初は噛みついてきたのに、気づけば膝で眠るようになったっけ……。


(いやいや、王太子殿下を犬扱いはダメ。でも……似てる……)



 夕暮れ、書類整理を終えてカーテンを引くと、冷えた風が部屋を抜けた。


「……雪の匂いがするな」


 殿下がぽつりと呟く。

 鋭い横顔なのに、その声音だけが妙に優しい。


「ええ。今日は降るかもしれません。寒いでしょうし、窓は閉めますね?」


 そう言うと殿下は、耳を澄ますように静かに目を閉じた。


「……いや、俺にはちょうどいい寒さだ」


 短い言葉なのに、不思議なほど胸に沁みた。


(この人……本当はすごく孤独なんだ)


 広い宮廷で高い地位にいるのに、誰より冷たい空気の中にいる。

 そう思った時――



「それに……うるさいお前がいるおかげで、それほど寒くない」


「……っ。なんですかもう、そんなこと言われても嬉しくないですよ!」


「別に褒めてないからな」


「もう!」


 冗談めいた軽い口調なのに、胸の奥がじわりと熱を帯びた。

 殿下の変化は確かに嬉しい。けれどその裏に、説明できない小さな違和感がずっと残っていた。



 ◆


 その日の夜。

 薬を届けるために殿下の寝室へ向かうと――


(……あれ? 灯りがついてる)


 殿下は就寝前に必ず灯りを落とさせるはず。

 だから、この明かりは明らかにおかしい。


 不安が胸をかすめた、その時。



 ――カチャ。


 微かな金属音が部屋の奥から聞こえた。


(……人の気配!?)


 扉の隙間からそっと覗き込む。


 黒い外套、顔を覆う布――覆面姿の人物が、殿下の枕元に身を寄せていた。


(だ、誰……!?)


 息が止まる。

 こちらに気配を感じたのか、覆面の人物が振り返り、闇の中で鋭い視線がぎらりと光った。


 ――やばい。


 考えるより早く足が動いていた。私は廊下を全力で駆け、警備兵を探す。


「し、侵入者です! 殿下の寝室に……!」


 必死の訴えに兵たちは驚きながらもすぐ動いてくれた。

 震える手を胸に押さえながら、私はただ殿下の無事だけを祈った。



 だが翌日。


 殿下は何事もなかったかのように、寝台から氷より冷たい目を向けてきた。


「……余計なことをするな」


「えっ……私は、殿下のために……」


「そんなことは頼んでいない。昨晩のことは誰にも吹聴せず、無かったことにしろ」


 短く切り捨てるような言葉が胸を深く刺す。


(そんな……私はただ、守りたかっただけなのに……)



 殿下は視線を逸らし、静かに続けた。


「……辞めたくなったか? ならば、いつでも言え」


 その声音は、明らかに距離を置こうとしているものだった。


(……私はもう、必要ない?)


 胸の奥にぽっかり穴が開いたようで、息が苦しい。


 せっかく、殿下との距離を縮められたと思ったのに。



(……それとも、私に知られたら困る“何か”を隠している……?)


 そんな考えが胸を締めつける。


 でも、混乱する思考の底で、ただ一つだけ確かだった。


(殿下が傷つくのだけは、嫌だ)


 すれ違っても、拒まれても――それでも私は、殿下から目を逸らすことができなかった。



 ◆


 翌日の午後。冬の陽が差し込み、殿下の寝室は淡い光に満たされていた。

 私はいつものように机に向かい、殿下が口頭で語った内容を文書にまとめていた。


(……落ち着かないな)


 昨日のすれ違いを引きずっている自覚があった。

 殿下は私を遠ざけようとしている。でも、その理由が分からない。


 ペン先が滑って、机の上の小瓶をカランと倒してしまった。


 ピクリ。


 振り返ると、殿下の左手指が反射するように、ほんのわずか動いた。


(……今、動いた……)


 凍りついたように固まっていた指先が、微細に、けれど確かに動いた。

 私は息を飲み、そっと殿下を見る。


 殿下は氷のように無表情のまま、しかし肩がかすかに強張っていた。



「殿下、もしかして……」


 ――動けないフリをしているんですか?


 静かに告げると、殿下は目だけでこちらを見た。

 驚いた――けれど否定しない目。



 私は追及しなかった。

 ただ、ぽつりと尋ねる。


「……私はどうすればいいですか?」


 殿下の喉が、かすかに動いた。

 迷いとも怒りともつかない沈黙を経て――


「…………黙っていろ。それが一番安全だ」


 低く、押し殺した声。

 拒絶のようで、けれど私を“巻き込みたくない”意志も滲む声。


(この人……どれだけ孤独を抱えてるんだろう)


 殿下は誰も信じず、誰にも頼らず、この宮廷という氷の牢獄で戦っている。

 その孤独の重さが、胸にじわりと広がった。



 夜が深まった頃。


 私は自室のベッドで、天井を見つめていた。

 外では雪が降り始め、静かな白が世界を覆っていく。


(……殿下の指が動いた。麻痺は演技。つまり、誰かを騙すため……)


 点と点が、ようやく線で繋がっていく。

 殿下は罠を張っている。自分を“動けない標的”だと思わせ、犯人を誘っているのだ。


(でも……そんな危ないこと、どうして一人で)


 胸がざわつき、落ち着かないまま窓に目をやった、その時。


 ――コツ。


 乾いた音が部屋の扉から響いた。


(……風? いや、違う)


 ゆっくり、扉の隙間が黒く染まる。

 影が、するりと忍び込んできた。



「……恨みはないが、殿下に近づくにはお前が邪魔なんだ」


 低く潜めた声。

 背筋が一気に冷たくなる。


(わ、私……狙われて……)


 逃げなきゃ、と頭では思うのに、体が動かない。

 影は静かにナイフを抜き、こちらへ近づいてくる。


 その瞬間だった――。



 ドン、と空気を押し返すような気配が走る。


「……リネアに触れるな」


 聞き慣れた声。いつもより低く、鋭い声。


 次の瞬間、私の部屋の扉が勢いよく開かれた。暗闇の向こうから姿を現したのは――独りで立ち上がったアレイス殿下だった。


 長い脚が影を蹴り裂き、冷気が室内に吹き込む。

 氷の魔力が床を這い、暗殺者の足元を瞬時に凍りつかせた。



「なっ……!?」


 影は叫ぶ間もなく動きを封じられる。

 殿下はそのまま手首を掴み、氷がパキンと締め上げる音が響いた。


 暗殺者は床に崩れ落ち、完全に拘束された。


 そして殿下は私のもとへ歩み寄り――


 肩を抱き寄せた。


「……今まで悪かったな。怖かっただろう」


 殿下の体温が、震える私を包む。


(……守ってくれた。演技を、解いてまで)


 胸の奥で、何かが溶けて音を立てた。


 氷の王子は、確かに私のために動いた。

 その事実だけで、世界が静かに色を変えていくようだった。



 暗殺者が拘束されたあとの部屋には、まだ細かな氷の粒が舞っていた。

 殿下の腕に支えられ、震える呼吸をなんとか落ち着けると、殿下はそっと私から手を離し、深く息を吐いた。


「……話すべき時が来たようだな」


 その声音は、これまで聞いたどの声よりも静かで、重かった。


 殿下は寝室へ戻ると、ゆっくりと椅子に腰を下ろした。

 その動作には、これまで必死に演じていた“動けない人間”の影は一切なかった。

 堂々とした、王太子アレイスその人の動きだった。



「まず――麻痺毒は未遂だった。体内に入る前に違和感に気づいた」


 胸の奥が一気に冷え、そして同時に温かい安堵が広がる。

 殿下は淡々と続けた。


「気づいた瞬間に確信した。誰かが、俺を消そうとしていると」


 氷の瞳がゆっくりと細められる。

 そこには怒りでも恐怖でもなく、静かで深い覚悟が宿っていた。



「黒幕を炙りだすには、俺が“動けない標的”になるのが最も効率的だった。だから四肢が麻痺したと噂を流した」


 胸の奥がざわりと揺れる。

 あの孤独な眼差し、触れられることを拒む態度。すべてが、張り巡らされた罠の一部だった。


「……近づく者すべてが怪しく見えた。誰が敵で、誰が味方か……判断がつかなかった」


 殿下の右手が、ほんのかすかに震えた。

 その震えに、どれほど長い時間、誰も信じられず戦ってきたのかが滲んでいた。


「貴族は嘘ばかりで、信用できない。だから一般から身の回りの世話ができる人材を雇ったんだ」


「それは使い捨てにできるから、ですか?」


「そうだ。……最初はそのつもりだった」


 そして殿下は、真正面から私を見据えた。


「……だがお前は王太子としての俺ではなく、一人の人間として俺を世話してくれた」


 胸の奥がじんわりと熱を帯びる。


「肩書きで人を判断していたのは、俺も他の貴族と同じだった――それをお前に気付かされたんだ」


「殿下……」


 殿下は誰も信じられなかった。孤独を抱え、誰かの手助けすら拒んでいた。

 その中で唯一、私だけは“疑いの対象”にならなかった。


 それがどれほどの意味を持つのか、痛いほどに分かってしまう。



 殿下は立ち上がり、ためらいがちに、けれど確かな足取りで私に近づいてくる。


 そして――そっと手を伸ばし、私の頬に触れた。


 ひんやりしているはずの指先は、不思議なくらい優しい温度だった。


「立場も、身分も…全部、人を遠ざける理由にしてきた」


 殿下の声は、苦さと甘さが入り混じっていた。


「だがもう逃げない。――俺にはお前が必要だ」


 その言葉が胸に触れた瞬間、涙が一粒、静かに頬をつたった。



「仕方なく始めた仕事でしたけど……」


 私は泣き笑いのまま、殿下を見上げる。


「……今は辞めたくなくなりました」


 殿下はふっと息を洩らした。

 それは、氷の王子が春の風に触れたような柔らかな笑みだった。


 殿下は私の耳元にそっと唇を寄せる。


「では続けろ」


 低く甘い声が、耳の奥にしみた。


「……私のそばで、生きてくれ」




 あれから数週間――ひとつ、大きな事実が明らかになった。


 暗殺者の取り調べが進み、ついに黒幕の名を吐いた。


 それは――私が息を呑むほど“よく知っている名”だった。


(……まさか、あの人が)


 かつて私が公文書検閲官として働いていた頃。

 不正会計の痕跡を見つけて報告しようとした際、担当していた貴族が圧力をかけ、書類の“紛失”を私の責任にした。

 私は冤罪のまま職を追われ、職場を去るしかなかった。


 暗殺者は、その男の名を口にしたのだ。



「殿下を排除すれば、次の政権で報われると言われた……黒幕は、あの貴族です」


 殿下は短く息を吐いたあと、私の肩に静かに手を置いた。


「……辛かったな。ソイツには相応の報いを受けさせる」


 その言葉が胸の奥に染み込む。

 あの日の悔しさも、孤独も、全部ひとりで飲み込んできた。

 でも今は、そんな過去すら温かく包み込んでくれる存在が隣にいる。


 黒幕は殿下への暗殺未遂だけでなく、私を陥れた件についても追及され、すべてが白日の下にさらされた。




(……本当に終わったんだ)


 王宮の空気は、これまでとは比べものにならないほど穏やかになった。

 黒幕の処分が進み、政も安定し、殿下が公務に復帰したことで国中がようやく落ち着きを取り戻したのだ。


 私はといえば―― 相変わらず殿下の“右腕”として忙しい毎日を送っていた。


「リネア、そこは『王命により』を強調しろ。……あと三文字削れ」


「はいはい殿下。……あ、字が曲がってますよ」


「……そこは見るな」


 こんなふうに気軽に言い合えるようになったのも、あの夜があったからだろう。

 氷の仮面は跡形もなく消え、殿下の表情には柔らかな色が宿っていた。



 ふいに殿下が手袋越しに私の指をそっと取った。

 ぎゅっと握るのではなく、確かめるように。


「……お前が隣にいるおかげで、今がしあわせだ」


 静かに告げられた言葉に、胸が熱くなる。


「殿下……そんなこと言われたら、本当にこの仕事が辞められなくなります」


「それでいい。辞められないようにしてやる」


「ずるいです」


「王太子だからな」


 得意げに言われ、思わず笑ってしまった。

 その笑い声に、殿下もほんの僅かだけ肩を揺らした。



 もう、再就職なんて考えなくていい。

 氷の王子の隣こそ――私の“永久就職先”なのだから。



拙作をお読みいただき、本当にありがとうございます。

読者の皆さまの応援が書く原動力となります。

もしよろしければ、★評価などいただけますと、作者の励みになります。

今後の創作にもつなげていきたいと思っております。

心より感謝をこめて──今後ともよろしくお願いいたします!


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冷酷王子の結婚相手を探す女官ですが、最終的に合格を出されたのが私でした

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― 新着の感想 ―
天職が見つけられたようで、よかったですね。
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