8.境界の影
古道具店での出来事から、日常の景色は少しずつ異質な色を帯び始めた。
電車の吊革を握る腕、階段を降りる背中、街灯に照らされた横顔。
それらが以前より鮮明に、そして異様に立体的に見える。
光の角度が骨の出方を浮かび上がらせ、筋肉の収縮が服の上からでもわかる気がする。
骨と筋肉の配置が透けて見えるような錯覚が、日に何度も訪れるようになった。
無意識のうちに、その線を目でなぞり、頭の中で分解している。
それでも、まだ一歩を踏み出せなかった。
相手は動物ではなく、人間だ。
肉の質も、骨の硬さも、反応も違う。
小動物を相手にした時のような単純さはない。
私の頭のどこかに、まだ“日常”という境界が残っていた。
その境界は、薄いガラスのように透けながらも、確かに存在していた。
しかし、日に日にその衝動は抑えられなくなっていく。
声が聴きたい。
皮膚越しの震えが混ざった、本物の声を。
色が見たい。
血管の青、血液の赤、筋肉の淡い桃色。
ぬくもりを感じたい。
指先に伝わる微細な鼓動と、熱を。
においを知りたい。
皮脂と汗、血と鉄が混ざった匂いを。
表情が見たい。
痛みと恐怖が交錯する、その瞬間の顔を。
それらの想像は、一度頭に浮かぶとしばらく離れない。
信号待ちで隣に立つ誰かの呼吸音が耳に入るだけで、脈が早まる。
階段を上る足音を聞いただけで、ふくらはぎの筋肉がどう収縮しているかを想像してしまう。
唾液が少しだけ増え、喉の奥が乾く。
胸の奥がじわりと熱くなり、手のひらが汗ばむ。
机の脇の棚には、破れかけの解剖学の図録が立てかけてある。
骨格の接合部、関節の可動域、腱が収まる浅い溝。
私はそれらを、飽きもせず何度もなぞった。
まるで家具職人が図面を指でなぞるように。
赤い線で描かれた血管の流れは、私にとっては“破線”だ。
ここを切れば、ここで止まる。
ここを外せば、もっと長く動く。
教科書の用途から外れた読み方を、私は誰にも見られない場所で繰り返した。
ページを閉じても、瞼の裏に同じ線が浮かぶ。
もうそれは紙の上ではなく、人の皮膚の下に透けて見える。
電車の中でも、交差点でも、相手の体に重ねてしまう。
そのたびに、指先がじわりと熱くなる。
まるでそこに刃を当てた瞬間の感覚を、先取りしているかのように。
境界は、すぐそこにあった。
薄く、脆く、息を吹きかければ砕けるほどに。
あとは、踏み込む理由と機会だけだった。