7.境界の手前
解体業をやめたのは、工場の冷凍室で指先を裂いたことがきっかけだった。
わずかな切創でも、冬の冷気の中では痛みが骨まで沁みる。
仕事を続ける意味を失い、私は再び職を転々とした。
倉庫、夜間清掃、短期の配送——
どの現場にも共通して、単調で、そして退屈だった。
転機が訪れたのは、夏葉原の古道具店でのアルバイトだった。
狭い店内は薄暗く、棚には壊れかけの時計や薬瓶、埃をかぶった顕微鏡が並んでいる。
客は少なく、ほとんどが物好きな収集家だった。
その日、背の低い中年男が棚の奥のナイフに手を伸ばした。
私は声をかける前に、男の手首を掴み、棚に押し付けた。
瞬間、骨と筋肉の境界が指先に浮かび上がる。
肘の角度をあと二度ほど捻れば、可動域は消える——
そう考えた瞬間、私の中の何かが音もなく弾けた。
男が呻き声を漏らすたび、私の心臓は深く沈み、ゆっくりと脈打った。
耳の奥で、自分の鼓動が水底の太鼓のように響く。
冷たい皮膚の下で動く熱、震える筋繊維、力の逃げ場を失った骨のわずかな軋み。
それらが私の手のひらから腕へ、そして背骨を伝って脳の奥に吸い込まれていく。
——これだ。
長く忘れていた感触だ。
かつて袋に入れた猫の小さな関節を砕いたときに、確かにあった“制御”の感覚。
それが、今は人間という、より複雑な構造物の中で生きている。
店主が慌てて警察を呼び、男は連れて行かれた。
私は何事もなかったかのように棚を拭き続けたが、掌の奥に残る熱は消えない。
指を少し動かすたび、あの感触が脈を打つ。
それは汗でも血でもなく、もっと内側にこびりつく何か——
剥がそうとしても剥がれない、私だけの痕跡だった。
帰宅後、机に広げた古道具の仕入れ伝票を、私はしばらく見つめた。
そこに書かれた住所は、いくつか私の知っている廃棄倉庫や解体場の近くだった。
不要品の中に、道具になるものが混じっているかもしれない。
そう考えるだけで、また手のひらが熱を帯びた。