5.初めての衝動
二年の夏休み前、私は教室で過ごす時間が急に苦痛になった。
休み時間に飛び交う笑い声や、机を叩く軽い悪ふざけが、耳の奥を不快に刺激する。
教科書をめくる紙の音、消しゴムを机に押しつける感触、鉛筆が転がる音——そうした些細なものまでが、皮膚の裏側をひっかくようだった。
部活や恋愛の話で盛り上がる同級生たちは、私にとって雑音の群れに過ぎなかった。
それなのに、彼らはなぜか私にも声をかける。表面的な友好を保とうとするその習性が、かえって苛立ちを膨らませた。
六月のある放課後、同じクラスの村井直人が、私の机に落書きをした。
ペン先で浅く彫られた線が、木目に沿って歪んでいる。
それはただの落書きだったが、彼が「冗談だよ」と笑った時、胸の奥にゆっくりと熱が滲んだ。
笑い声が反響し、頭の内側で金属を擦るような軋みが生まれる。
正直、綺麗だと思った。
『この生き物に同じ模様を刻んだらきっと美しい…』
次の日、私は村井の靴箱に画鋲を仕込んだ。
それだけでは物足りず、机の中に彼の持ち物を一式詰め込み、ゴミ捨て場に投げ込んだ。
昼休み、彼が困惑し目に涙を浮かべ、必死で探し回る姿を廊下の隅から眺めたとき、胸の奥に妙な温かさが広がった。
「この感覚は何だ?」と考えるよりも早く、笑みがこぼれていた。
——もっと、確実に刻みたい。
その週末、私は河川敷に呼び出した村井の背後に立ち、手にしたナイフの刃先をそっと押し当てた。
金属の冷たさが彼の背中越しに伝わり、私の指先を震わせる。
切るつもりはなかった。血を見る前に、その緊張を味わいたかった。
村井の肩が小刻みに揺れ、呼吸が浅くなる。
その瞬間、私の呼吸は異様に深くなり、視界が澄み渡る感覚があった。
「冗談だよ」
そう言って刃を引いた。
だが村井はその場で吐き、涙を流しながら逃げていった。
背中が小さくなっていくのを見届けながら、私は自分の脈拍の速さを数えていた。
その後、学校に彼は来なくなった。教師は私に何も聞かなかったが、廊下ですれ違うクラスメイトの目は、確かに変わっていた。
無言で距離を取る者、視線を逸らす者、あるいは好奇心を隠せない者。
そのすべてが、私にとって心地よかった。
それでも私は平然と登校を続け、やがて単位不足と素行不良を理由に自主退学を勧められた。
中退の日、私は誰にも告げず校門を出た。
鞄の中には、使い古したメスと、村井の学生証が入っていた。
それが何よりも、私の新しい生活の始まりを示す証拠に思えた。