33.令和22年2月9日 午後10時47分
家に戻ると、玄関を閉めた音が静かに響いた。
靴を脱ぎ、照明をつける。
外で感じた冬の冷たさは、ここではもうない。
静かで、無機質で、何も起きていないような空気が部屋の中を満たしている。
コートを椅子に掛け、テーブルの端に置いてあるメモ帳を開いた。
明日の予定を書き込んだページを指でなぞる。
倉庫に残したシート類の交換、焼却炉の灰処理、使用済みの刃物の廃棄。
すべてが整然と書き込まれている。
グラスにウイスキーを注ぎ、ひと口含む。
氷の音が澄んだ音を立てた。
その音に合わせるように、自然と今日の倉庫の光景が脳裏に浮かぶ。
――あの男は今も、あのまま吊られているだろう。
呼吸は浅く、体温は急速に奪われているはずだ。
皮膚を剥いだ部分からは血が止まらず、滴が床へ規則的に落ちている。
もう、意識はないかもしれない。
あるいは、ぼんやりとした明滅の中で、闇を見つめているか。
想像ではない。
これまで積み重ねてきた知識から導かれる、単なる計算だ。
水分量、出血量、体温低下の速度、意識の持続時間。
数字で考えれば、結果はほぼ正確に予測できる。
「あと数時間だな」
小さく呟き、再びウイスキーを口に含んだ。
テーブルの端には、小さなガラス製の骨壷が二つ並んでいる。
ひとつはすでに封をしてある。
中には、最初の“作品”が眠っている。
もうひとつは空のまま。
今日の分が入る場所を、すでに用意してある。
2人目の彼は、今思い返しても笑みがこぼれる。
死を決意して訪れた樹海。
すべてを捨てる覚悟を決め、最期の場所を選んだはずの男だった。
だが、その覚悟はあっけなく崩れた。
初めて見たとき、彼の目には確かに死を受け入れた光があった。
だが、あのホテルで食事をし、髪を整え、服を着替えさせたとき、
その光は少しずつ揺らぎ、かすかに“生”を求め始めた。
死を願って樹海に来たはずの男が、肉を焼きながら笑い、
酒を口にし、夜の街で女たちと会話を交わす。
生を思い出したその瞬間から、彼はもう後戻りできなくなっていた。
そして再び、眼前に突きつけられた“死”。
自ら選んだはずの結末に、彼は必死で抗おうとした。
剥がれ落ちた覚悟の下から、惨めなほど露骨な恐怖が滲み出る。
「やめろ」「助けてくれ」「死にたくない」
その声がかすれていくたび、彼の存在は少しずつ私の中で“完成”へ近づいていった。
あの絶望の表情は、今も鮮明に焼きついている。
どれほど時間が経っても、その光景は色褪せない。




