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32.令和22年2月9日 午後4時29分

 倉庫を離れた直後、車内に漂うのは、鉄と薬品の匂いが混じったわずかな残り香だった。

 ハンドルを握る手に、まだ熱が残っている。

 時計は16時を少し過ぎていた。

 陽は傾き始めているはずなのに、視界はやけに鮮明で、車窓に流れる景色が一枚一枚、異様に細かい解像度で焼きついていく。


 助手席の上には、使い終えた薄手の手袋と新しいものが一組ずつ置かれている。

 こうしておかないと落ち着かない。

 常に、次の一手を想定しておくことが、私にとって唯一の安息だった。


 しばらく無言で走っていると、公園の脇を通りかかった。

 ブレーキを踏み、車をゆっくりと路肩に寄せる。

 開けた窓から、子供たちの笑い声が飛び込んできた。


 冬の冷たい空気の中、頬を赤らめた子供たちが駆け回っている。

 転んでも泣かない。すぐに立ち上がって走り出す。

 親たちはベンチで談笑し、手にした紙コップから湯気が立ち上る。

 その光景には、何の不自然さもない。

 ただ、幸福だけがそこに満ちていた。


 だが、その幸福は私にとってまるで異物だった。

 まるで、透明なガラスの向こうにある別世界を覗き込んでいるようだ。

 自分の視界の中にあるのに、触れられない。

 どれだけ手を伸ばしても決して届かない場所にあるもの。


 胸の奥に、微かな苛立ちにも似たざらつきが広がる。

 あの笑い声はあまりにも軽く、無防備で、そして無価値に思えた。

 何も知らないから笑えるだけだ。

 彼らが立っているその日常は、あまりに脆い。

 ほんのひとつ条件が変わるだけで、簡単に崩れる。

 それを彼ら自身が知らないことが、可笑しくて、同時に滑稽だった。


 「……」


 窓越しに映る子供たちの姿は、過剰なまでに明るく、世界の中心のように見えた。

 対して、ハンドルを握る手の平には、まだ熱が残っている。

 あまりに対照的で、吐き気がするほどだ。


 やがて再びギアを入れ、アクセルを踏む。

 車はゆっくりと流れに乗り、やがて公園は視界の外に消えていく。

 笑い声が遠ざかり、代わりに車内に静寂が戻った。

 それが妙に心地よかった。


 アクセルを踏み込みながら、視線を街路へ流す。

 歩道を行き交う人々、信号待ちの車列、店先で買い物袋を提げる家族連れ。

 その中の誰かが、次の“候補”になるかもしれない。


 意識して探しているわけではない。

 ただ、視界に入る一つひとつを条件に照らし合わせ、無意識に選別してしまう。

 歩き方、姿勢、連れの有無、視線の動き。

 無駄の多い仕草、虚ろな目、孤独の影。

 そうした細部は、赤い糸のように私の中で結ばれていく。


 「まだ、見つからないな」


 小さく呟き、ハンドルを切る。

 街の喧騒を抜け、住宅街へと入る頃には、空は群青に沈み始めていた。

 日常の光と影の間を抜けながら、私はただ、淡々と候補を絞り込み続けていた。


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