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29.令和22年2月9日 午後2時30分

男が低いうめき声をあげた。

瞼が震え、乾いた呼吸が喉の奥でかすれる。

やがて眼球が動き、視界に光と影を取り戻す。


吊られた両腕がわずかに軋むと、鎖が金属音を響かせた。

その音に導かれるように男は自らの状況を理解し、肩を揺らす。

力任せに身体を振ろうとしたが、足が床に届かないことを知った瞬間、喉から掠れた声が漏れた。


「……なんだ……これは……」


焦点を取り戻した瞳が、ゆっくりとこちらを射抜く。

私がそこに立っているのを認識した時、彼の顔から血の気がすっと引いていった。


「なぜ……どうして……」

質問は途切れ途切れで、言葉よりも震えの方が先に伝わる。


私は肩をすくめ、淡々と応じた。

「どうしてか……そんなもの、答える価値があるのか?」


答えを与える代わりに、私は静かに告げる。

「君は昨日まで“死にたい”と呟いていた。だが今はどうだ? こうして生き延びようと足掻いているじゃないか」


男の顔が引き攣る。

恐怖と混乱が入り混じり、目の奥に幼稚なほどの本能的な色が宿る。

その反応が私にはたまらなく心地よかった。


「人は、生に執着するほどに美しい」

私は微笑を浮かべ、吊られた男を見上げる。

「その矛盾こそが私の求めるものだ。昨日まで死を口にしていた舌が、今は命を乞うために震えている。その落差が……実に滑稽で、愛おしい」


私は腕を組み、彼のもがきを愉快そうに観察した。

鎖が揺れるたび、倉庫の空気はきしみ、金属の反響が私の耳に甘美な旋律のように届いていた。


私はさらに言葉を続ける。


「私はね。君の願望を叶えただけなんだ。

いい服を着たい。いいホテルに泊まりたい。

いい靴を履いて、良い物を食べて、良い女を味わいたい。

──それらは君がどこかで望んでいたものじゃないのか?」


男の目が揺れた。

言葉を否定することもできず、肯定する勇気もなく、ただ口の端が震える。

それは、真実を突かれた人間特有の、滑稽な沈黙だった。


「だが叶えてしまえば、もう残るものはない。

欲望を満たされた後の人間は、むしろいっそう醜く、弱々しい」

私は微かに笑みを浮かべ、彼の震える顎を見上げた。


「そして、私は今、君の最大の望みを叶えてやろうとしている。

二日前、富士の樹海で何を口にしたか、覚えているか?」


男は吊られた鎖を軋ませながら、必死に声を絞り出す。

「……死にたい……」


私は静かに笑みを浮かべた。

「そうだ。その言葉こそが君の本心だ。

私はただ、それを順序立てて整理してやっているだけだ。


昨日は生の残滓を与えた。ホテルも、服も、食事も、女も──君が触れることのなかったはずのものを、一度に浴びせてやった。

そして今日は、最後の仕上げだ。


順番が多少前後しただけで、君の望みは確かに叶えられる。

そうは思わないか?」


男の瞳が大きく揺れた。

恐怖と、微かな後悔と、そして否応なく突きつけられた“自分の言葉”への絶望。

私はその沈黙を愉快そうに眺めながら、手元の金属を軽く持ち上げた。

ピーラーの刃が光を反射し、彼の眼球に映り込む。


「さあ、君の本心と向き合おうじゃないか。

口先だけの願望が、どれほど価値を持つのか──私に証明してみせろ」

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