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28.令和22年2月9日 午後2時8分

環状の流れを外れ、倉庫の並ぶ通りにハンドルを切る。

冬の陽は白く、どこにも影を濃くしない。

助手席の男は、首をわずかに傾け、静かな呼吸だけをこちらに寄越していた。

さっきまで途切れ途切れに喋っていた言葉の尾が、まだ車内の布地に張り付いている。

「生き返った気がする」——その言い回しは、呆れるほど軽かった。


シャッターの南京錠が外れ、金属が擦れる音が昼の静けさを割る。

中は相変わらず冷たく乾き、埃と油の匂いが層になって鼻に届く。

私は男の肩を支え、ひと息の重さを受け取ってから、床へ。

靴底がコンクリートを擦る音が、倉庫の四角い空洞で大きくなる。


天井の梁から下がる鎖に手を伸ばす。

触れた金属は氷のようで、掌の温度を奪っていった。

手首をまとめる。

皮膚の下で血流がせき止められるわずかな変化と、関節が正しい位置に収まる感触。

順番は決まっている。音と重さを確かめながら、ゆっくり上へ。


鎖が一目盛り動くたび、体のラインが引き延ばされていく。

肩の奥で古い軋みが鳴り、肘の角度が静かに変わる。

つま先がわずかに床を探し、空を掴むように失敗する。

それでも私は急がない。

荷重は、少しずつ与えるほど正確に馴染む。


やがて、体は空気の中で均衡を見つけた。

揺れは細く、呼吸は浅い。

顎が胸に落ち、喉が小さく鳴る。

昼の明るさが、吊られた影の輪郭だけを濃くしている。


私は一歩下がり、全体を見る。

鎖、梁、コンクリート、そして中心に据えた対象。

舞台は整った。

昨日まで死を望んでいた口が、つい今朝まで「ありがとう」を繰り返していたことを思い出す。

——人は、これほどまでに軽やかに、己の生を取り替える。


男の眉間がわずかに寄り、眼球の裏で光が跳ねた。

意識の縁が、戻ってくる。

私はその瞬きを待つ。

幕が上がるのは、いつだって静かだ。

「おはよう。よく眠れたかい?」

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