27.令和22年2月9日 午前1時40分~2月9日午前10時48分
ホテルの部屋へ戻ると、男はすっかり疲れと酔いを滲ませながらも、妙に晴れやかな顔をしていた。
ベッドの縁に腰を下ろし、深く息を吐くと、しばらく黙り込み──やがてぽつりと漏らした。
「……俺の人生に、希望をくれてありがとう」
その声音には、戸惑いと、微かな羞恥が混じっていた。
昨日まで「死にたい」と繰り返していた人間が、今は「希望」を口にしている。
その滑稽さに、私の胸の奥で静かな笑いが膨らむ。
「……死ぬなんて、早まったのかもしれないな。
まだ……まだ、やれることがあるんじゃないかって……そう思えてきたんだ」
言葉を重ねる彼の顔には、確かに生への執着が宿っていた。
私は頷き、淡々と返す。
「そうか。それならよかった」
内心では別の感情を抱きながら。
人は、かくも容易く変わる。昨日の絶望も、今日の希望も、どちらも同じく薄っぺらい。
だが、その浅さが、今の彼を私にとって格好の“材料”にしているのだった。
「今日はもう休め。明日も支度をしておけ」
そう告げると、男は安心したように頷き、ベッドに身を横たえた。
やがて静かな寝息が部屋を満たす。
私はその姿をしばし眺めてから、自室に戻り椅子に腰を下ろした。
暗い窓の外に街の灯が点々と揺れている。
その光を背に、私は声を出さずに笑った。
胸の奥からせり上がってくるものは、静かな愉悦。
昨日まで死にたいと呻いていた男が、今は生の甘さに酔いしれ、
まるで明日が来ることを信じて疑わない子供のように眠っている。
──愉快でたまらなかった。
生に縋る姿ほど醜く、美しいものはない。
そしてその矛盾が、私の指先をさらに震わせる。
「明日が待ち遠しい」と思えるほどに。
午前の光がカーテンの隙間から差し込み、白いシーツを照らしていた。
部屋をノックする音に応じると、昨夜の男が姿を現した。
新しい服に身を包み、髪を整えたその顔は、
昨日までの陰鬱さを欠片も残していなかった。
「おはようございます……」
少し照れたように笑いながら頭を下げる。
その目には、死を望んでいた者の影など見えない。
あるのは、まだ続くと信じた生活への淡い期待だけだった。
ホテルを後にし、車を走らせる。
男は助手席で窓の外を眺めながら、小さく独り言のように呟いた。
「本当に……生き返った気がします。
昨日の自分が、別人みたいで……」
私は片手でハンドルを握りながら、鞄に入れておいた小さなペットボトルを取り出した。
透明な水に見えるが、すでに仕込みは済んでいる。
無造作に男の膝へ転がすと、彼は自然に手を伸ばし、キャップを回した。
「……ありがとうございます」
喉を鳴らしながら一気に半分ほどを飲み干す。
言葉を続けようとした彼の声が、次第に途切れ途切れになっていく。
「……なんだか……急に……眠……」
彼の頭がぐらりと揺れ、重さに耐えきれず肩へと沈んできた。
呼吸は浅く、しかし規則正しい。
私は視線を前に戻し、ゆっくりとアクセルを踏む。
目的地は決まっている。
もう二度と目を覚ますことのない、彼だけの終着点。
ハンドルを握る指先に、静かな震えが伝わっていた。




