表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
27/38

27.令和22年2月9日 午前1時40分~2月9日午前10時48分

ホテルの部屋へ戻ると、男はすっかり疲れと酔いを滲ませながらも、妙に晴れやかな顔をしていた。

ベッドの縁に腰を下ろし、深く息を吐くと、しばらく黙り込み──やがてぽつりと漏らした。


「……俺の人生に、希望をくれてありがとう」


その声音には、戸惑いと、微かな羞恥が混じっていた。

昨日まで「死にたい」と繰り返していた人間が、今は「希望」を口にしている。

その滑稽さに、私の胸の奥で静かな笑いが膨らむ。


「……死ぬなんて、早まったのかもしれないな。

 まだ……まだ、やれることがあるんじゃないかって……そう思えてきたんだ」


言葉を重ねる彼の顔には、確かに生への執着が宿っていた。

私は頷き、淡々と返す。


「そうか。それならよかった」


内心では別の感情を抱きながら。

人は、かくも容易く変わる。昨日の絶望も、今日の希望も、どちらも同じく薄っぺらい。

だが、その浅さが、今の彼を私にとって格好の“材料”にしているのだった。


「今日はもう休め。明日も支度をしておけ」

そう告げると、男は安心したように頷き、ベッドに身を横たえた。

やがて静かな寝息が部屋を満たす。


私はその姿をしばし眺めてから、自室に戻り椅子に腰を下ろした。

暗い窓の外に街の灯が点々と揺れている。

その光を背に、私は声を出さずに笑った。


胸の奥からせり上がってくるものは、静かな愉悦。

昨日まで死にたいと呻いていた男が、今は生の甘さに酔いしれ、

まるで明日が来ることを信じて疑わない子供のように眠っている。


──愉快でたまらなかった。


生に縋る姿ほど醜く、美しいものはない。

そしてその矛盾が、私の指先をさらに震わせる。

「明日が待ち遠しい」と思えるほどに。


午前の光がカーテンの隙間から差し込み、白いシーツを照らしていた。

部屋をノックする音に応じると、昨夜の男が姿を現した。

新しい服に身を包み、髪を整えたその顔は、

昨日までの陰鬱さを欠片も残していなかった。


「おはようございます……」

少し照れたように笑いながら頭を下げる。

その目には、死を望んでいた者の影など見えない。

あるのは、まだ続くと信じた生活への淡い期待だけだった。


ホテルを後にし、車を走らせる。

男は助手席で窓の外を眺めながら、小さく独り言のように呟いた。


「本当に……生き返った気がします。

 昨日の自分が、別人みたいで……」


私は片手でハンドルを握りながら、鞄に入れておいた小さなペットボトルを取り出した。

透明な水に見えるが、すでに仕込みは済んでいる。

無造作に男の膝へ転がすと、彼は自然に手を伸ばし、キャップを回した。


「……ありがとうございます」

喉を鳴らしながら一気に半分ほどを飲み干す。


言葉を続けようとした彼の声が、次第に途切れ途切れになっていく。

「……なんだか……急に……眠……」


彼の頭がぐらりと揺れ、重さに耐えきれず肩へと沈んできた。

呼吸は浅く、しかし規則正しい。

私は視線を前に戻し、ゆっくりとアクセルを踏む。


目的地は決まっている。

もう二度と目を覚ますことのない、彼だけの終着点。


ハンドルを握る指先に、静かな震えが伝わっていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ