26.令和22年2月8日 午後18時00分~2月9日午前1時00分
網の上で肉が焼け、脂が弾ける音が続いていた。
立ちのぼる煙に包まれながら、男は黙々と肉を口へと運んでいた。
それは、飢えを満たすというより、何かを取り戻そうとする行為に近かった。
「……前は、よく食べてたのか?」
私が問いかけると、男は箸を止め、しばらく視線を宙にさまよわせた。
「……昔、まだ家庭があった頃は。給料日になると、妻と子どもを連れて行った。
あのときの子供の笑い声が、まだ耳に残ってる」
そう言うと、彼はビールを一口含み、わずかに笑った。
それは自嘲でもなく、懐かしさでもなく、記憶にすがるような笑みだった。
「じゃあ、どうしてここに来た」
私の声は淡々としていた。
男はグラスを置き、煙の向こうに視線を落とす。
「全部、なくしたからだよ。仕事も、家族も……。
気づいたら、俺には生きる理由が一つも残ってなかった」
その言葉は焼ける肉の音にかき消されそうに小さく、
だが確かに熱を帯びていた。
私は頷きもせず、ただ箸を進めた。
彼の言葉が本物であろうと空虚であろうと、どうでもよかった。
重要なのは、その言葉を吐き出すことで、
彼が自分自身を「まだ生きている」と錯覚している事実だった。
肉を咀嚼するたび、男の瞳はわずかに濡れていく。
「……こんなうまいもの、また食えるなんて「……思わなかった……こんな日が来るなんて、思わなかった。
ありがとう……ありがとう……」
繰り返すその言葉は、誰に向けたものでもなかった。
ただ、肉を噛み締めながら、零れるようにこぼれていく。
私はグラスを傾け、心の奥で笑みを浮かべた。
店を出ると、街には夜の灯がともっていた。
看板が光を放ち、人の群れが通りを埋め尽くす。
男は落ち着かない様子であたりを見回しながら、まるで自分の居場所を探すように歩いていた。
私は後部座席から高級ブランドのカバンを取り出し、無言で男に差し出した。
「……これを持て」
男は一瞬ためらったが、受け取った瞬間、目にわずかな光が宿った。
それは自分を取り繕うための仮面であり、同時に人間らしい欲望の表れでもあった。
繁華街の入り口に差し掛かると、ネオンの光が鮮やかに揺れる。
私は立ち止まり、視線の先を指した。
煌びやかなキャバクラの看板が、闇に沈んだ空気を一気に塗り替えるように輝いていた。
「行くぞ」
私がそう言うと、男は唾を飲み込み、小さく頷いた。
店に入ると、香水と酒の混ざった匂いが押し寄せる。
眩しいほどの照明、きらびやかなドレスをまとった女たちの笑顔。
その瞬間、男の姿勢がわずかに変わった。
カバンを持つ手に力がこもり、まるで自分がここにふさわしい人間であるかのように振る舞おうとした。
席に着くと、女たちの笑い声と酒の匂いに包まれる。
男はぎこちない笑みを浮かべながらも、次第に声を張り、冗談を言い、酒を重ねていった。
ブランドのカバンがテーブルの脇に置かれているだけで、彼の口ぶりは確かに変わっていた。
「……俺もまだやれる。そう思えてきた」
酔いに赤らんだ顔で、男が吐き出すように言った。
私はグラスを掲げ、静かに笑った。
その姿はすでに、死を願っていた男ではなかった。




