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25.令和22年2月8日 午前11時00分~午後18時00分

男から連絡が入ったのは、午前11時を少し回ったころだった。

受話器越しの声は、夜に聞いたそれよりも幾分明るく、

腹を満たした余韻がまだ残っているように聞こえた。


「……おはようございます。言われた通りフロントにつないでもらいました」


その声音には戸惑いも、迷いも残っている。だが同時に、まだ消えない微かな期待が滲んでいた。

死を求めてここに来たはずの男が、今は生の小さな快楽にしがみついている。

それだけで十分だった。


私は短く答える。

「支度をしておけ。これから出かける」


男は小さく息を呑み、そして従うしかないと悟ったように沈黙した。


エレベーターを降り、ロビーへ向かう。

すでにチェックアウトの時間が近いのか、宿泊客たちが三々五々集まっていた。

スーツ姿のビジネスマン、着飾った夫婦、子供を連れた家族。


その中で、彼の姿だけが明らかに浮いていた。

くたびれたシャツ、無精髭、落ち着かない視線。

通り過ぎるたびに、人々の目が彼に突き刺さる。

好奇と侮蔑と、軽い警戒。


「……見られてる」

男が小声でつぶやいた。


私は隣で歩を止めることなく、淡々と答えた。

「気にするな。誰もお前のことなど覚えてはいない」


彼は口を閉ざし、ますます肩をすぼめた。

その姿を横目に、私は心の奥で微かな笑みを浮かべていた。

視線に怯え、居場所を失った彼の姿は、すでに私の“演出”の一部だった。


車を走らせ、辿り着いたのは街の中心にある美容院だった。

大きなガラス張りの店内には明るい光が満ち、整えられた観葉植物や、雑誌を手にした客たちの笑い声が漏れてくる。

そこだけ別世界のようで、男は足を止めた。


「……俺が、入るのか?」

戸惑う声。


「そうだ。ここで整えてもらえ」

私は淡々と告げる。


受付の女性が笑顔で迎えると、男は視線を落としたまま、椅子へと導かれる。

鏡の前に座らされると、自分の顔と向き合うことになる。

無精髭、伸びすぎた髪、疲れ切った目元。

それらを直視させられ、彼はわずかに肩をすくめた。


「今日はどうされますか?」

美容師が尋ねる。


「……お任せします」

掠れた声で返す。


鋏の音が響くたびに、床に黒い髪が散っていく。

鏡の中の彼は次第に形を変え、ぼやけた輪郭が整えられていく。

やがて髭も剃られ、首筋が現れる。

その変化を、私は隅の椅子に腰を下ろし、黙って眺めていた。


「……別人みたいだ」

仕上がりを見て、男は思わず口にした。

自分の顔が自分のものではないかのように、目を丸くしている。


美容院を出たあと、私は男を街の一角にある高級ブランドの路面店へと連れて行った。

全面ガラス張りの扉を押し開けると、香水と革の匂いが混ざった空気が迎え入れる。

白い照明の下、整然と並んだ服と靴は、どれも彼にとって縁遠い世界のものだった。


男は一歩踏み入れただけで足を止めた。

「……俺には、場違いだ」

小声で呟くが、私は気に留めず奥へ進む。


「ここで一式そろえる」

私の言葉に、男は戸惑いながらついてくるしかなかった。


店員が丁寧に挨拶をし、私の視線に合わせて次々と服を提案する。

シャツ、ジャケット、パンツ。試着室で着替えた彼が姿を現すたびに、

鏡の中には別人のような輪郭が映し出された。


「……本当に、俺なのか」

鏡を覗き込む声は震えていた。


さらに革靴を履かせ、ベルト、時計まで揃えさせる。

無造作に伸びた髪と髭を整えられたその顔と、

磨き上げられた革靴を鳴らして立つその姿は、

もはや昨夜の“死にたい”と口にしていた男とは結びつかなかった。


「似合っている」

私がそう告げると、男は返事をしなかった。

ただ鏡の中の自分を見つめ、表情の奥に複雑な色を沈めていた。


街に灯りがともり始めたころ、私は車を停め、隣の男に声をかけた。

「さて、晩飯だ。何が食べたい?」


男はしばらく黙り込んだ。質問の意味を測りかねているようだった。

だが、私がただ前を向いて待ち続けると、意を決したように小さく口を開いた。


「……焼肉が、いい。

昔、家族と行ったきりで……それ以来ずっと、行けてなくて」


その言葉は、彼の奥にまだ残っていた“生活”を不意に浮かび上がらせた。

死にたいと口にしていた男の舌が、今は肉の匂いを求めている。

その矛盾が、私の胸を確かにくすぐった。


私は短く答える。

「いいだろう」


ほどなくして暖簾をくぐり、個室に案内される。

テーブルの上に網が置かれ、火が起こされる。

肉の皿が並べられると、男は思わず目を見張った。

赤身、霜降り、分厚いタン、脂ののったカルビ。


焼ける音が立ち上がると、彼は箸を伸ばさずにはいられなかった。

「……こんなうまそうなの、久しぶりだ」

網の上で肉が弾け、煙が香ばしく立ちのぼる。

男は熱さに顔をしかめながらも、口へと運び続けた。


「……俺、まだ死にたくないのかもしれないな」

小さく漏らしたその言葉に、私は笑みを抑えきれなかった。

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