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24.令和22年2月8日 午前6時00分

カードキーを差し込み、扉を押し開ける。

柔らかな照明が一斉に灯り、無駄に広いスイートルームが目の前に広がった。

革張りのソファ、厚い絨毯、壁一面のガラス窓。

奥には広すぎるほどのベッド。

そのすべてが「余分」であり、だが演出としては完璧だった。


私は窓際まで歩き、振り返りもせずに答える。

「まずは休め。ここで眠ることも作業の一部だ」


「休むことが……作業?」

男は小さく笑い、首を振った。

「俺は死ぬつもりで来たんだぞ。こんなベッドに寝るなんて……」


「だからこそだ」

短くそう告げると、彼は言葉を失った。

「起きたら、フロントに電話して〇〇号室につないでもらえ。

腹が減っているなら好きなものを頼めばいい。

必要なものがあれば遠慮なく伝えろ」


「……本当に、いいのか?」

ようやく絞り出した声には、戸惑いと警戒が入り混じっていた。


「好きにしろ」

私は淡々と返す。


男はしばらく沈黙していたが、やがて視線を泳がせ、

テーブルの上に置かれた分厚いメニューに手を伸ばした。

ページをめくる指先はぎこちない。

それでも、食べ物の写真に目が止まるたびに喉がわずかに動く。


「……ステーキ、パスタ、サラダ……」

自分に言い聞かせるように呟きながら、受話器を取った。

「ルームサービスをお願いします」

声は震えていたが、そこには子供のような昂ぶりが混じっていた。


受話器を置いたあと、男はわずかに笑った。

「こんな場所、来たこともない……」

その笑みは安堵か、諦めか、それとも錯覚か。

私にはどれでもよかった。


豪奢なベッドを見つめながら、男はまだ半信半疑の様子で頷いた。

その仕草は哀れで、滑稽で、同時に私にとっては格好の材料だった。


豪奢なスイートの空気が、確実に彼を麻痺させていく。

死にたいと口にしていたはずの人間が、今は欲望に従って食事を選び、安らぎを求めている。


豪奢なスイートの空気が、確実に彼を麻痺させていく。

死にたいと口にしていたはずの人間が、今は欲望に従って食事を選び、安らぎを求めている。


「じゃあ、俺は部屋に戻る。明日また連絡をする」

男がこちらを振り返ったとき、私は声を重ねる。

「……くれぐれも、一人で勝手に死ぬんじゃないぞ」


その言葉に男は小さくうなずき、視線を逸らした。

まるで自分の意思がどこにあるのかさえわからなくなったかのように。


自分の部屋に戻ると私は椅子に腰を下ろし、

イヤホンで男の部屋の様子に聞き耳を立てる。


最初は衣擦れの音、足音、そして受話器を置く乾いた音。

やがて、食器が触れ合う音が続く。ナイフが皿を切り、フォークが肉を貫く音。


「……こんなうまいもの、食うのは初めてだ」

くぐもった声が、イヤホンの奥で震える。


死にたいと口にしていた人間の、その舌が、今は必死に「生」を貪っている。

その矛盾があまりにも滑稽で、愛おしい。


私は声を押し殺すことなく、高らかに笑った。

静まり返ったホテルの一室に、その笑いは何度も反響し、

まるで夜そのものが、私の狂気を讃えているかのようだった。

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