表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
11/38

11.令和21年11月17日午後11時52分

令和21年11月17日。

曇り空が街全体を押しつぶすように低く垂れ込め、冷えた風が建物の隙間を抜けていった。

駅前のコンビニの明かりだけが、灰色の空気の中でぼんやりと浮かんで見えた。

あの夜も、彼女はそこにいた。


レジ横で缶コーヒーを整えている細い腕。

指先は淡く白く、爪の形は解剖図の骨格標本に描かれた末節骨を思わせた。

制服の袖が少し上がるたび、橈骨のラインが浮かび上がる。

私は棚の陰から、それを何度も確認していた。


この日、外に出たのはただ煙草を吸うためではなかった。

天気予報を理由に、仕事を早めに切り上げ、数時間も前から駅周辺を歩いていた。

コンビニの周辺は防犯カメラの死角と、光が届かない路地が複雑に入り組んでいる。

何度もその位置関係を確かめ、足音の響きやすさまで計算した。

まるで作業台に置いた木材を、切断角度まで測り込む職人のように。


午後11時52分。

彼女がゴミ袋を手に、裏口から路地へ出てくる。

吐息が白く、肩がわずかに上下する。

袋を縛るとき、肘が伸び、袖の隙間から手首が現れた。

その瞬間、私の中の映像と現実が完全に重なった。


——今なら、届く。


足元の砂利が音を立てないよう、踵を浮かせて一歩ずつ近づく。

距離は三歩。

二歩目を踏み出したとき、心臓が一度だけ大きく脈打った。

解剖図で見た心臓の位置、その鼓動が指先にまで伝わる感覚を、私ははっきりと覚えている。


最後の一歩で腕を伸ばす。

手首を掴む感触は、想像よりも軽く、しかし確かな弾力を持っていた。

彼女の息が詰まる音。

驚きと恐怖の混ざった短い声が、冬の空気に溶けた。

すぐにもう片方の手で口元を覆う。

布越しに感じる呼吸の早まりが、私の胸の奥に熱を広げた。


抵抗は弱い。

足元を滑らせ、身体を私の方へ引き寄せた瞬間、腰骨の位置、肩の可動域、全てが頭の中で数値化されていく。

袋が地面に落ち、ビニールが擦れる音が、妙に長く耳に残った。

彼女の視線は必死に外を探していたが、この路地に人影はない。


その後の動きは、何度も繰り返し練習した通りだった。

肩を支点にして体重を乗せ、背を壁に押し付ける。

右足で彼女の膝裏を軽く押し、重心を崩す。

声を上げられないよう顎を引かせ、頭部を私の胸に押し当てる。

全てが滑らかに進み、時間が異様にゆっくりと流れていった。


脳裏には、ページをめくった解剖図がまた浮かんでいた。

肋骨の下を走る動脈。

肩甲骨の可動域。

そして首の後ろを覆う薄い皮膚と、その下の柔らかな構造。

全てが、指先の延長にあるように感じられた。


やがて、彼女の動きが弱まり、体温だけが私に残った。

耳元でかすかに聞こえる脈拍が、ゆっくりとした波のように遠ざかっていく。

その瞬間、私は自分が“境界”を完全に越えたことを知った。


袋を拾い、路地の奥に放り投げる。

誰も来ないことを確かめてから、力の抜けきったソレを車の後部座席に押し込む。

街は相変わらず静かで、コンビニの明かりだけが夜を照らしていた。


——第一の事件は、こうして始まった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ