Temptation
だだっ広い講堂にぎゅうぎゅうに人が押し詰められ、学長を名乗る偉そうなご老体から長々と話を聞かされている、そう、今日は入学式だ。魂を削るような受験戦争を乗り越え、なんとか第一志望の大学へ入学できた僕はあの頃の殺伐とした気持ちはすっかり抜けきり、待ちに待った華々しい大学生活を妄想して舞い上がっていた。けれども、変な動物のキャラが大学生活の注意喚起をする動画を見せられた後から、学長のどこに着地するかも分からないような話が延々と続き、新しい出会いに期待して引き締めていた僕の心持ちもとっくにほどかれ、起承転結の「起」の部分が終わったであろう辺りから眠りの魔の手が僕の喉元まで差し掛かってきていた。魔の手に引き摺り込まれないようなんとか抗い、うんうんとうなっている時、不意に声を掛けられた。
「君、ずいぶん眠そうだね、休みの間夜更かしでもしてた?」
睡魔によってモヤのかかっていた眼をなんとか開き、声のする方を見るとそれは隣の席の女の子からだった。
「飴持ってるんだけど食べない?」
そう言うと彼女は黄蘗色の個包装に包まれた檸檬味の小さな飴玉をこちらに差し出す。
僕は回らない脳と舌を必死に回して「……っす」とだけ言いその飴を受け取った。
「君どこ出身なの? 学部は?」
飴を受け取った姿を見て会話を続けても良いと判断したのか、彼女は矢継ぎ早に質問を並べていく。太陽のように明るく溌剌とした彼女の話し方には僕の中の睡魔も焼かれて完全に消滅してしまったようだ。とはいえ急に女の子と話すのも苦手な僕は照れ隠しのように飴を口に放り込みながら「自分は広島出身で、学部は工学部っす……」とそっけない返事をしてしまう。そんな僕に対しても彼女は「へぇ〜! そうなんだ! 結構遠くから来てるんだねぇ」と女神のような優しさで相槌を打ってくれる。心の中の逆張りに唆された僕は、一体何が彼女の目的なのだろうか、もしかして入学早々壺とか買わされるのではないのだろうか、などと思い「何で急に声かけてきたんですか」と聞くと彼女は自慢げな表情で語り出す。
「何て言うのかな〜、やっぱり何か運命的なものを感じたっていうか、ともに宿命を背負っていくことになる予感がしたというか〜、そんな感じ!」
「袖振り合うも他生の縁って言うしさ、席が隣り合うってのもある種の運命だと思うんだよね」
「だからさ、もっと君のお話を聞かせて?」
そう言って彼女はさらに僕へ質問を重ねていく。あたふたしながら返答を繰り返しているといつの間にか学長の話は終わり、解散の流れとなっていた。
工学部の学生は残ってください、それ以外の方は解散となりますというアナウンスが流れる。
「あっ、もう終わりの時間だね! いっぱいお話聞かせてくれてありがとう!」なんてニコッとはにかむ彼女に手を振って見送ろうとした時、不意に彼女が耳元でこう囁いた。
「ここって飲食禁止らしくてさ、見つかったらすっごく怒られるんだって。君も私と一緒の悪い子になっちゃったね」
そう言うと彼女は振り返らずに後ろへ手をひらひらと振りながら去っていった。
僕は手にあった包み紙を見つからないように握り隠して、跳ね上がった心拍を落ち着けるため、ただ顔を伏せることしかできなかった。