1 当て馬令嬢
「俺が好きなのはアリス、君だけだ。エレノアのことは妹のようにしか思っていない。エレノア、君だって俺のことを兄のようにしか思ってないだろう?」
エレノアと呼ばれた令嬢の目の前には、令嬢アリスを抱きしめながら冒頭の発言をしているエレノアの恋焦がれる男性、アンドレがいた。エレノアは美しい金色の髪を風に靡かせ、碧い瞳を悲しげに揺らしている。そんなエレノアを見て、アンドレの腕の中にいるアリスは不安げに口を開いた。
「そんな、私にはわかります、エレノア様だってアンドレ様のこと……」
「ありえないって言っているだろう。エレノア、どうかちゃんとアリスに教えてやってくれ。俺たちは何もない、ただの兄妹みたいなものだって」
マリアの発言に対して当然のようにそう言ってくるアンドレを、エレノアは張り付いたような笑顔を浮かべてただ見つめることしかできない。
(ああ、胸が痛い、苦しい……どうしてそんなこと平気で言えるの?本当に私の気持ちに何も気づいてなかった。ただの妹としか、見てくれていなかった)
アンドレの腕の中には、不安そうな顔でエレノアを見つめるアリスがいる。あの場所にいるのが、どうして自分ではなくあの子なのだろう。
「エレノア!」
アンドレの声でハッと我に返る。アンドレを見ると、アンドレはエレノアを懇願するような目で見ている。
(どうしたって無理なの。わかってる。私は、アンドレ様にとって、ただの妹)
「そうですよ、アリス様。どう考えたって、アンドレお兄様はアリス様のことしか見えてません。私のことなんてなんとも思っていない、妹としか思っていないんです。そんなアンドレお兄様のこと……私も、兄のようにしか思ってません」
そう言って、にっこりと微笑むと、アンドレはほっとしたような顔でエレノアを見た。その顔を見た瞬間、エレノアの胸はズタズタに切り刻まれたように痛む。
「お二人の邪魔になるので、私はもういなくなりますね。アリス様、どうかお兄様とお幸せに」
そう言って小さくお辞儀をすると、エレノアはくるりと後ろを向いて足早にその場から立ち去る。
(はやく、はやく、お兄様たちのそばから離れたい。もう顔も見たくない、見れない)
俯きながら足早に歩くエレノアの足元には、ポタポタと水滴が落ちていく。エレノアの両目からは大量の涙が溢れ、エレノアの視界は大きく歪んでいった。
*
(どうして、私はどうしてこんな所に来てしまったのかしら……)
実質アンドレにフラれた翌日の夜。エレノアは夜会へ足を踏み入れていた。そこは、仮面をつけ素性を明かさないまま異性と出会い、一夜を共にする相手を探す貴族たちの秘密の場所だった。
アンドレにフラれたショックで我を忘れ、ヤケになって噂で聞いていたこの場所へ来ては見たものの、明らかに場違いだと思った。色めきだった男女がヒソヒソと小声で話し、お酒を飲みながら楽しげにどこかへ去っていくのだ。
(ヤケになっていたとはいえ、こんな所に来るべきじゃなかったわ。頭も冷えたし、こっそり帰ってしまおう)
エレノアがそう思って会場から出ようと足を運ぼうとした時、急に目の前に人影が現れた。
「こんばんは、麗しき御令嬢。もしかして、お一人ですか?」
「え?あ、はい……」
仮面をつけた男性がエレノアにそっと近づいてグラスを差し出す。突然のことで頭が回らず咄嗟にそれを受け取ると、エレノアよりも随分と年上に見えるその金髪の男性は微笑んでエレノアとさらに距離を縮めた。
「お一人なら、私とゆっくり話をしませんか?魅力的なあなたとぜひ話がしてみたい」
そう言って、男性はゆっくりとエレノアの背中に手を回し、静かに手を動かす。その手は、背中から腰へ、さらに少しずつ下へ降りていくのがわかった。
(ひっ!気持ち悪い!)
ゾワっとした悪寒が背筋を走る。一刻も早くこの場から立ち去りたい。だが、エレノアは体が硬直して動けない。血の気が引いて何もできないでいるのだ。エレノアが動けないことをいいことに、男性の手がお尻まで降りてきたその時。
「失礼、その御令嬢はどうやら具合が悪いようですよ。手を離してあげてください」
突然低い良い声がして、エレノアのお尻に伸びていた手を誰かが掴んでいる。エレノアが驚いて振り返ると、そこには見知らぬ仮面の男性がいた。ふわりとした黒髪に、仮面の下からはルビー色の瞳が見える。
「なっ、邪魔をするつもりか?横取りするつもりだろう」
「横取りだなんて、本当に彼女は具合が悪いんですよ、ほら。顔が青ざめている。そんな御令嬢を無理やり誘うのは、この会場ではマナー違反のはずです。主催者に報告しましょうか」
黒髪の男性に言われた金髪の男性は、チッと舌打ちをしてエレノアたちから離れていった。
(た、助かった……)
バクバクと鳴り響く心臓がうるさい。エレノアが口をハクハクさせていると、黒髪の男性が静かに声をかけた。
「大丈夫ですか?バルコニーに出ましょう、風に当たった方がいい」
「す、すみません」
バルコニーに出ると、心地よい風が頬をかすめていく。ほうっと息を吐くとエレノアは隣にいる男性を見る。
「先ほどは、ありがとうございました。本当に助かりました」
「いえ、どう見ても嫌がっているようにしか思えなかったので。でも、どうしてこんな所へ?その様子だと、本気で夜の相手を探しているようには見えませんが」
「……私、失恋したんです。幼馴染で、兄妹のようにずっとそばで一緒に過ごしてきた相手に、妹のようにしか見えないって、他の御令嬢を抱きしめながらはっきり言われたんです。それで、ヤケを起こしてここに来てみたんですけど……来るべきじゃなかったって、本気で思いました。馬鹿ですよね」
フフッとエレノアが寂しげに笑うと、黒髪の男性は無言でエレノアを見つめる。
「……そうでしたか。俺もついこの間、幼馴染にふられました。良い相手ができていたみたいで、俺のことは兄としか思っていなかったみたいです。似ていますね」
悲しげに、黒髪の男性はつぶやいた。エレノアは驚いて男性を見上げると、男性は宙をぼんやりと見つめている。きっとその令嬢のことを考えているのだろう。まるで自分を見ているようでエレノアは辛くなった。
「もう、帰ります。本当にご迷惑をおかけしてすみません。ありがとうございました」
そう言って、エレノアはふと手元にあるグラスに気づいた。シュワシュワと金色の液体に泡がキラキラと輝いて浮かんでいく。
(高そうなお酒。勿体無い、これくらいならきっと酔わないわ、飲んでしまおう)
そう思って、エレノアはグイッと一気にグラスを開けた。それを見た黒髪の男性は慌てて声を上げる。
「それは……!」
「お酒は弱くないので、これくらい大丈夫です。本当にありがとうございま……あれ?」
急に頭がくらくらする。目の前がふわふわとして段々歪んで、そのままエレノアは倒れ込みそうになるが、既のところで男性が受け止める。エレノアを受け止めた男性は、小さくため息をついた。
(あ、れ?ここは……?)
目を覚ましたエレノアは、ゆっくりと目を開いてからぼうっとしながら横を向く。すると、そこには見知らぬ黒髪の男性が寝息を立てて寝ていた。
(は?え?何?どういうこと!?)
一気に頭が冴えてエレノアは両目を見張る。ガバッと起きてしまいたいが、隣の男性を起こしてしまうわけにはいかない。そろっと自分の体を確認して、エレノアはホッとした。
(よかった、ドレスは着たままだわ。何もされてない)
隣の男性も服を着ているようだ。エレノアは心の中で安堵のため息をつくと、倒れてしまう前のことを思い出していた。確か、金髪の男性に手渡されたお酒を飲んだらフラフラして、そのまま気を失ったのだ。目の前の黒髪の男性は、おそらく自分を助けてくれた、のだと思う。自分も相手も仮面をつけていなかった。
目の前の黒髪の男性の顔を見て、あまりの綺麗さに驚く。瞼が閉じられているが、それでもイケメンであることがよくわかる。
(仮面をつけているときはよくわからなかったけれど、すごく綺麗な顔立ち……!って、見とれてる場合じゃなかったわ!)
そろりとベッドから抜け出す。とにかく、ここから一刻も早く脱出して屋敷に戻りたい。
(どこのどなたか存じませんが、本当にご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。でも、もう二度とお会いしませんように)
ベッドで寝ている男性にペコリとお辞儀をして、エレノアはそうっと部屋から抜け出した。