正体不明
二月三日。時刻は午前五時。
「真紀ー、起きなさいー」
階段下から母の声と何か炒める音が聞こえてくる。私はいやいやベッドから這い出した。自分で決めたこととはいえ寒い……眠い……。どうしよう、部活、休もうかなー。
「駄目。行きなさい。いったん休み癖が付いたらずるずる行っちゃうんだから」
デスヨネー。
さみさみと言いつつ私は階段を下りた。食堂のテーブルには弁当が蓋開けた状態で置いてあった。中身は唐揚げだ。わーい。お、プチトマトに私の大好きなブロッコリーも入ってる。
「朝から頑張ったんだからねお母さん。あんたも頑張るのよ部活!」
有り難い。
この後母は仕事に行く。うちは母子家庭だから。
味噌汁をすすりつつ私は思った。今日は初日だから甘えちゃったけど、明日から自分が作らなきゃ。弁当。
うわ、となったらもっと早起きしないとっ。起きれるかな私。
それにしても寒いなあ。
マイナス何度ですなんて天気予報でやってた。私はバス通学で、家の近所の駅のロータリーからいつも乗っている。
朝早いから、ほとんど人がいない。サラリーマン風の男の人と、私の母親と同い年くらいの女の人。あと私と同じ、高校生らしいカップル。そしておばあちゃんが一人、バス停で待ってる人はそれだけ。
やっとバスがやって来た。やった、とのりこむ。でも入り口あけあけだから冷たい風が入ってくる。座席は暖かいんだけど指が、指がぁ。
ハー、と暖めていたら、隣にサラリーマン風の男の人が乗って来た。寒いねと苦笑交じりに話しかけてくる。
「入り口しめてくれたら有り難いんだけどな」
え? ちょっと、この人距離近くない? と思ってよく見たらご近所さんだった。慌てておはようございますと挨拶する。
えらくまた早くから行くんだねと言われたので、今日から部活なんですと私は答えた。
「テニス部なんです。私一年だから早く行って準備しないといけないので」
ははは、そうなんだ、新入りの辛いところだねとかその人と話していたら、
「あら、テニス部? 私の孫も学校でテニス部に入ってるの」
向かいに座ってたおばあちゃんが話しかけてきた。
「そうなんですか」
「大会に出るとか言ってたよ」
ニコニコして話すおばあちゃん。どうやらそれが自慢らしい。
へえ、すごいと、そんな話してるうちに発車時間になった。その時だ。
閉まりかけのドアに無理矢理割り込んできた人がいた。運転手さんが慌ててドアを開ける。
お怪我はありませんかってその人に駆け寄る運転手さん。相手は何も言わずにすたすたと歩いて一番後ろの座席に座った。
「……」
私も、おばあちゃんも、サラリーマンの男の人も、ほかの乗客も、唖然としていた。なんなのあの人みたいな感じ。
その人はモッサリした格好の、若い男の人だった。
それぞれみんなスマホ見たり読書したり。私は今日英単語のテストがあるから、スマホで音楽聞きながらそれ覚えてた。
何個か停留所過ぎたころだった。向かいのおばあちゃんの席に、誰かが移動してきた。見ると高校生のカップルだった。
小さい声で、スミマセン、隣良いですかと聞いてる。
「いいですけど、どうしたの?」
おばあちゃんの問いに、座らせてもらった女の子の方がヒソヒソ声で言うのが聞こえてきた。
「なんかあの人ずっとぶつぶつ言って気持ち悪いんです」
男の子は座らずに立って、そっちを警戒するようにちらちら見てる。
私はそっとバス内を見渡した。
いつの間にか、乗客の人達が全員前に来ていた。
例の男の人は後ろで何かあらぬところを見つめてぶつぶつ言ってる。
うわ、なんかやばい人?
どうしよう、次で降りようかな。幸い、後ろに座ってるし。
と思ってたら、その人いきなり立ち上がってずんずん前にやって来た。ヒエッ。
てか、なんかこの人臭いよ、なんかスゴイ臭い。
お客様、席にお座りくださいと運転手さんが言う。男の目が、運転手をジロッとにらむ。
次は、市民病院前、とアナウンスが入った。その時だった。男はいきなり服のポケットからナイフを取り出し、運転手につきつけた。
乗客の悲鳴があがる。
「お、お客様」
「止めるな。このまま高速にのれ。そして出来るだけ郊外に行くんだ」
なんか壊れた機械みたいな喋り方。死んだ魚みたいな目で運転手にその人はそう命じた。
突然のことに金縛りになる私たち。
バスのスピードが上がった。停留所にいたお客さんたちが目を丸くしているのが見えた。
「よ、要求は何ですか?」
運転手さんが聞くも、その人はただ郊外に行けとしか言わない。
マジで意味わかんない。
そいつは私たちに言った。動くな。動いたらこいつを殺すと。
高速に乗ったバス。もっとスピードあげろとそいつが喚く。朝のラッシュ時、バスはうなりを上げて高速を爆走した。
「すみません、一体どこまで行けばいいんですか?!」
運転手さんが泣きながら聞いてくる。男は言った。街中から出来るだけ離れろと。
やがてバスは本当に郊外に、つまり人里から離れた場所に乗り入れた。
どうなるの? 私たち。
乗客のみんなは怯え切っていた。怖さ通り過ぎると声も出ないと私は学んだ。バスは山の中の道を走っている。もしかしてこのまま、得体の知れないところに連れていかれるんじゃ……。
お母さん、助けて。
天国のお父さん助けて。
バスはやがて山のてっぺんまでたどり着いた。そこは展望台になっていた。男は乗客に降りろと命令した。
運転手さんもやがて外に放り出された。
展望台は誰もいなかった。みんな互いに顔を見合わせてる。こんなとこに来て何すんの?って。
展望台の上は街中にもまして寒かった。おまけに怖いから余計にだ。みんな寒さと恐怖でひきつった顔でバスの降り口見つめてる。あいつはまだ降りてこないけど、そのうち降りてくる。今のうちに逃げる? でももし、バスで追いかけて来られたら?
人間、こうなったら何にも出来ない。身動きも出来ない。
時間だけが過ぎていく。
「なあ、ちょっとおかしくないか?」
リーマンの男の人がバスの入り口を睨みながら言った。すると他の人も頷いた。
私もそう思った。あの人何やってんだろうって。
ずっと出てこないじゃないって。
時計みたらかれこれ一時間ちかくたってる。
だいたい、私たちをこんな場所に連れて来ていったい何がしたい?
何か変な奴らが待ち受けていたわけでもない。ただ展望台に来ただけ。
運転手さんと、リーマンの男の人とで、バスの周りをぐるっと回って様子を見た。何か動いてる気配はない。
「ちょっと、中を見てきます」
運転手さんが言う。危ないよ。てか警察呼ぼうよと誰かが言った。
今更だけど、やっとみんな思考が回って来た。
でも。
「あかん、圏外」と高校生カップルのうちの男の子が言った。
「やはり中に入ります。無線なら通じますから」
運転手さんは顔を引き締めるとバスに入って行った。リーマンの男の人と、高校生の男の子も一緒に乗り込む。こうゆう時ほんと、男の人ってすごいなと改めて思った。
固唾をのんで見守る私たち。
やがて彼らは驚愕の事実を私たちに言った。誰もいないと。
どこかに隠れてるんじゃ、とおばあちゃんが言う。
「いやほんとにどこにもいないんですよ」
隅々まで探したけど、どこにもいないと言う。
窓から出た形跡もない。開いてない。
でも中にいないってことは外に出た以外無いんじゃ……と誰かが言ったら、
「いや、その可能性はないです」
運転手さんがしっかりした口調で言った。
なにそれ。まるで狐につままれたみたい。私らはまた、互いに顔を見合わせた。
「ねえ、私トイレに行きたいんだけど」
おばあちゃんだ。無理もない。寒い中ずっと立ちっぱなしだったんだから。幸い展望台にトイレがあった。
トイレまでリーマンの男の人がついて来てくれた。
警察はすぐに来てくれた。なんでも、停留所に止まらなかったバスを見て誰かが通報してくれたとのことだった。私たちは知りようも無かったけど、必死に探してくれていたんだって。
「あら、まるで映画みたいね」安心したのか、ニコニコしながら言うおばあちゃん。お母さんと同い年くらいの乗客の女の人が、そう言えばバスが物凄いスピードで走るの、見たことありますよと言い、周りも、ああ、それそれと賑やかなおしゃべりが始まっていた。
警察の人が展望台をくまなく見て回っていた。展望台には自販機があったので、暖かいコーヒーを買って飲むことにした。
バスに戻り、ヒーターの効いた座席に座ってコーヒーをすすると、ようやく生きている実感がわいてきた。とにかく良かった。スマホが通じる場所に入ったら、すぐにお母さんに知らせよう。聞いたらきっとびっくりするだろうな。あ、でも仕事中だからやめた方がいいかしら。
ちなみに警察の人も、私らの話を?な顔で聞いていた。そんなことあるの?って。まあだから現場を隅々まで探していたんだけどね。
もろもろのことが終わってようやくそこから動けた時は、お昼を過ぎていた。早くお弁当食べたい―。
その、例の男の人は結局、どこにもいなかったそうだ。警察の人が教えてくれた。
その後、私は無事に学校に行けた。朝練は出られなかったけど。
家にも無事に帰りついた。
家でその事をお母さんに話すと、警察から連絡があったんだって。
「その男の人、どこに消えたのかしらね」
母親にしてみたら、また同じ事件起こすんじゃないかと思うんだろう。私もそう思う。
警察から、似顔絵を作るからと言われてる。
「私、記憶力悪いのに大丈夫かな」
「でもちゃんと見たんでしょ?」
「うん」
「どんな顔だったの?」
母親に聞かれ、私はその人の特徴を話した。二重で、ダンゴ鼻で、眉毛が太くて、顎が平たくて。目つきが鋭かった。
「濃ゆい顔ねぇ」
母が苦笑して言う。言われてみたら濃ゆい。
晩御飯が終わって、食後のデザートのケーキをほおばっていると――今日こんなことがあったから、母が奮発して買ってきてくれていた――母が言った。明日から、お母さんが学校まで車で送ってあげるわと。
「そんな、大丈夫だよ」
「駄目よ。万が一のことがあったらどうするの? 職場にはしばらく休むからって言ってあるから」
んもー、心配性なんだからと私が言うと、犯人が捕まるまでよと母が言った。
しょうがないか。いちおー一人娘だし。だし。
まあ、怖くないと言えばうそになる。またバスに乗ってあんなのが出て来たらと思うと……そう考えると、しばらく一人でバスには乗れそうもないと思った。
疲れた……とっとと風呂入って寝よう。朝練のこともある。
私は寝る前に仏壇に手を合わせた。守ってくれてありがとうお父さんって。
仏壇に色あせた写真が置いてある。物心ついた時にはもういなかった父だけど、写真の中の父は昔の人らしい、濃ゆい顔をしていた。
その日、ベッドにもぐりこんだ私はなかなか寝付けなかった。やっぱ興奮してたんだなと実感。
そして夢を見た。
私らがバスで街中から離れていた間。
街の上空で何かが光った。それは爆発のようなものだった。
そこから何か豆粒みたいなのが街に降り注ぐ。
――何? あれ。
その豆粒は人の体に溶け込むようにして入り込んだ。
豆粒が人の肌の下をうごめいてる。みんな気付いてない。やがてそれは一斉に頭に向かって移動を始めた。
私はみんなに叫んだ。なんか変なのいるよ!
でも誰もが私を素通りしていく。
それが頭の処にまで来ると中にめり込んだ。
キィィィィィィィン、と機械音が私の鼓膜に響き渡る。その豆粒が、何をしているのかが、見える。人の頭の中で何をしているのかが
ふらふらと倒れる人々。やがて彼らは起き上がり、いつもと変わらぬ生活をし始めた。
そこで私は目を覚ました。汗びっしょりだ。今の夢、何?
吐き気が込み上げてきた。
ぎし、ぎし、と階段を上がる音が、私の耳に聞こえてきた。
誰? まさか泥棒?
「真紀ちゃん、どうしたの?」
お母さんの声だ。私はほっとして、なんでもない、怖い夢見たのと返事した。そうなのと言う母の足音。まだ階段を上がってくる。
ほんともう心配性なんだから。
とその時だった。
私のベッドのすぐそばに、誰かが立っているのが見えた。それは例のバスジャック犯だった。
私は空気の塊を丸呑みした。怖くて声が出ない。
――ニゲロ。
彼はそう言って、窓を指さした。
仏壇に置いてあるお父さんの写真と同じ顔で。