2-3
居座ろうとする芳磊を追い出した後、彩姫は半ば強引に外に連れ出された。
「本当に出かけても大丈夫なのでしょうか?」
訪ねてくる者はいないと李翔は言っていたが、芳磊のように突然訪ねてくる客がいるかもしれない。
「まだ心配しているのか? 大丈夫だ。それより何故後ろにいる?」
彩姫は李翔の一歩後ろを歩いている。
軍に所属していた頃の癖で一歩後ろを歩いていた彩姫だ。
「あっ……つい……」
李翔に手招きされたので、彩姫は隣に並ぶ。
「しかし、動きやすい格好をしてこいと言ったが、男装しなくても良かったのだぞ。そうしているとまるで黄彩のようだな」
出かける時に動きやすい服装に着替えろと言われたので、男性用の襦褲を着ている。
髪は頭頂に結い上げて傘を被っているので、今の彩姫は黄彩そのものだ。
「この格好の方が落ち着くのです。それより将軍……ではなく李翔様。どこに行くのですか?」
「ついてくれば分かる」
李翔は不適に笑う。
李翔について辿り着いた場所は軍部の厩舎だった。
「勇帆!」
彩姫は己の愛馬の姿を見つけて駆け出す。
苦楽をともにした青鹿毛の馬は彩姫の声を聞くと、耳を立てる。
「元気そうだね。良かった」
たてがみを撫でると毛艶が良く、しっかりと手入れをされていることが分かりほっとする。
「……勇帆には誰が乗っているのですか?」
李翔に嫁すことが決まった際に、彩姫は泣く泣く愛馬を軍部に譲ったのだ。
「誰にも譲っていないぞ。こいつは黄彩しか乗せないからな」
たてがみを李翔が撫でると、警戒するように耳を伏せる。
「そうなの? 勇帆」
彩姫が勇帆の目を覗き込むと再び耳を立てたので、李翔は顔を顰める。
「誰も乗ることができない馬は軍馬として役に立たない」
はっとして彩姫は勇帆の首に抱き着く。
「お願いします! 勇帆には言い聞かせますので、処分しないでください!」
軍馬に求められるのは強さと従順さだ。誰も乗せない馬など論外であり、処分の対象となる。
引き取り手がいればいいが、多くの場合は食料とされてしまうのだ。
「そういう意味ではない。勇帆はうちで引き取る」
「えっ?」
彩姫の目は少し潤んでいる。勇帆が処分されるかもしれないと思ったら、悲しみに襲われたのだ。
李翔は少しばかり罪悪感に苛まれる。
本当は彩姫を喜ばせようと思っていたからだ。
劉信に「お前は言い回しが下手だ」とよく言われるが、そのとおりだ。
だが、一を聞いて十を知る彩姫であれば、自分の意図を理解してくれると思い込んでいた。しかし、それは戦場だけでのことだけらしい。
「誤解をさせてすまない。俺はどうも口下手だ」
しゅんと項垂れる李翔を見て彩姫はくすりと笑う。
「李翔様が口下手なのは知っております。でも嬉しいです。正直、勇帆とはもう会えないと思っておりましたから」
軍馬である勇帆は戦で命を落とすこともあるのだ。
引き取ることも考えたが、自分の持ち馬である以上、皇宮に置いておくわけにはいかない。
朱徳妃に知られたら、勇帆が危ないのだ。
彩姫は子供の頃、可愛がっていた犬を朱徳妃に毒殺されたことがある。
勇帆が彩姫の愛馬だと知ったら、何か仕掛けてくるに決まっているのだ。
身軽で嫁した方がいいだろうと、彩姫は軍を退役する前、存分に勇帆と別れを惜しんだのだった。
もう一度、勇帆と会えることができ、しかも李翔は引き取ってくれるという。
李翔の不器用だが優しい心遣いに感謝した。
「そうか。喜んでもらえたのであれば何よりだ。せっかくだ。これから遠乗りでも行くか?」
動きやすい服装でと言った理由が分かった。
勇帆を引き取った後、遠乗りに行くという目的があったのだ。
「はい。ぜひ!」
紫桜国から凱旋した時以来、勇帆に乗っていないので、彩姫は李翔の誘いが心底から嬉しかった。
皇都が見渡せる丘の上まで李翔と並走する。
李翔の馬は青毛で名を迅雷と言う。
草原の民から手に入れた馬で力強く足が速い。
「やはり馬はいいな」
「ええ。どこまでも行ける気がします」
「子供の頃、世界の果てを見てみたくて、がむしゃらに馬を走らせたことがある。おかげで馬を潰す手前まで走らせて、親に殴られた。草原の民にとって馬は家族だからな」
李翔の出自が草原の民であることは有名だ。
もちろん、彩姫も知っている。
だが、何故この国に来たのかまでは知らない。踏み込んで聞くつもりはなかった。
これからも李翔から話さない限り詮索するつもりはない。
「私も虹の麓がどうなっているのか気になって馬を駆ったことがあります」
「俺も追いかけたことがあるぞ。虹は地面から生えているものだと信じてな」
虹は雨滴の内部で反射した光なので、地面から生えているわけではない。
好奇心旺盛な子供だからこその発想なのだ。
多くの人間は虹の原理を学ぶわけではないが、大人になるにつれて虹がどうなっているのかなど気にしなくなる。ただ美しい自然現象として見るだけなのだ。
「彩姫は子供の頃からじゃじゃ馬だったのだな」
丘の上に辿り着いた二人は馬の手綱を木につなぎ、休ませる。
自分たちは草の上に座り皇都を眺めていた。
「じゃじゃ馬とは何ですか? 乗馬も公主としての嗜みです」
「だが、虹の麓が気になって馬を駆る公主はいないだろう?」
「うっ!」
図星だったので、彩姫は言葉に詰まる。
虹を追いかけた日、乗馬の指南役から両親に報告がされたのだが、父は「それは逞しいことだ」と笑っていた。だが、母は烈火のごとく怒ったのだ。
『其方は公主なのです! 其方に何かあれば罰せられるのは指導にあたっていた者なのですよ。上に立つ者としての責任を自覚しなさい!』と。
母に諭されて彩姫は公主としての責任を自覚したのだ。
自分の行動一つで他人の人生を変えてしまうことが、堪らなく恐ろしかった。
その日以降、彩姫はむやみやたらに行動することがなくなったのだ。
おかげで周りは思慮深く優しい公主だと褒めたが、彩姫は少しばかり窮屈さを感じていたのだった。
「どうした? 疲れたのか?」
李翔に顔を覗きこまれてはっと我に返る。
「いいえ。少しばかり昔のことを思い出していました」
「昨夜話していたことか?」
「それよりも昔のことです」
彩姫は何となく李翔であれば自分の思いを聞いてくれる気がして、先ほど思い出した子供の頃のことを話した。
李翔は時折相槌を打ちながら、黙って彩姫の話に耳を傾けてくれたのである。
「それは母君が正しいな」
聞き終わった李翔は開口一番そう言った。
「……そうですよね」
やはり李翔も思うところは同じなのだと、彩姫は肩を落とす。
だが、頭をポンポンと優しく叩かれる。
「だがな。今の彩姫は俺の妻だ。もう公主ではないのだから自由に生きればいい。肩書なんかくそくらえだ。そうだろ?」
あまりにもあっけらかんとした李翔に呆気にとられる彩姫だ。
「……この婚礼は李翔様には気が進まないものだったのではないですか?」
今朝、芳磊に「公主を降嫁させなければいい」と李翔が言ったことを気にしているのだ。あの言葉を聞いた時、彩姫は胸がずきりと痛んだ。
「……それでもだ。縁あって夫婦となったのだから、俺は彩姫の望むことをしてやりたいと思っている。言っただろう? 草原の民は伴侶を生涯大切にするんだ」
照れくさそうに李翔はそっぽを向くので、彩姫はおかしくなって微笑む。
「はい。末永くお願いいたします、旦那様」
「お、おう。そろそろ帰るか? 風が出てきた」