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まだ夜が明けきらぬ頃、張俊の一日は始まる。
竈の火をおこそうと厨房へ向かうと、すでに明かりが灯っていた。
暗殺者かと思ったが、明かりを灯して厨房に忍びこむわけがない。
それならば、主人である李翔がまた趣味の菓子作りをしているのかとも思ったが、昨夜、婚礼をあげたばかりだ。いくら無粋な李翔でも花嫁を放って菓子作りをするわけがないと思い直す。
大方、泥棒だろうと懐に忍ばせた短刀を抜き、気配を消して厨房へ近づく。
張俊は元々暗殺者だった。そして過去、李翔を暗殺しようとして失敗したのだ。
標的にした相手が悪かった。何せ、白蓮皇国一の武人で暗殺慣れをしていた。
おかげで反対に返り討ちにあってしまったのだ。だが、李翔は張俊を殺さず生け捕りにした。
おそらく、刑部に引き渡されて極刑に処されるのだろう。そう、張俊は死を覚悟した。
しかし、李翔は張俊を刑部に引き渡さず、何故かスカウトをされたのだ。
『見てのとおり、私兵もいなければ使用人すらいない。どうせ行くところはないのだろう? ならば住み込みで働いてくれないか?』
張俊は当惑した。どこの世界に暗殺者を使用人として雇い入れる奴がいるだろう?
しかも、それが国の大将軍とくれば尚更だ。
だが結局、李翔の申し出を受けることにした。
たとえ生きて帰ったところで、暗殺に失敗すれば待っているのは死だ。
それならば、この大将軍を利用してこの国を出るという手もある。
すぐに出ていくつもりだった。
だが、気づけば一年、二年と時は過ぎていき、いまだにここにいる。
何のかんので張俊はこの変わり者の将軍を気に入っていたのだ。
裏の勝手口から音もなく厨房へ入ると、見知らぬ女が竈の火をおこしているのが、目に入った。
「誰だ?」
女の背に問いかけると、女は驚いたように振り返る。
射干玉のように艶やかな黒髪をサイドだけ双髷に結い上げている麗人だ。
昨日はベールを被っていて顔が分からなかったが、張俊はこの麗人が誰なのか悟った。
「公主……いえ奥方様。このような朝早くから何をなさっていらっしゃるのですか?」
「この家の方ですか?」
「この屋敷の使用人で張俊と申します」
張俊は叩頭礼をしようとしたが、目の前の麗人はすでに公主ではないことを思い出して、立礼のみにする。
「ちょうど良かった。調理器具はどこですか? 竈の火をおこせたのは良かったのですが、調理器具がどこにあるのか分からなくて……」
「それでしたら、あちらの棚にまとめて……ではなくてですね! 奥方様がこのようなところにいらっしゃる必要はないのですよ」
官吏や貴族の奥方は女主人として家事を取り仕切るが、実際に家事をこなすのは使用人の役目だ。
「ですが、この屋敷の使用人は張俊だけですよね? 一人で何もかもこなすのは大変なのではありませんか?」
「それは……そうですが……」
図星をつかれて張俊は口ごもる。
「では、決まりですね。屋敷の家事をするのは女主人の役目なのですから」
彩姫は棚から調理器具を取り出すと、手際よく並べていく。
「そういう問題ではなくて……そもそも料理はできるのですか? 貴女は公主だったのですから厨房に立ったことはないのでは?」
昨日まで皇宮の、しかも奥まった所にある後宮で育った公主が料理などできるのかと、張俊は訝し気だ。
「大丈夫です。十四歳の時から侍女と厨房を取り仕切ってきましたから、ひと通りのことはできます」
冷宮に封じられた呉氏に付いてきてくれたのは、莉英ただ一人だけだった。
だが、莉英も厨房で勤めたことがなく、最初はおっかなびっくり彩姫と二人で料理を始めたのだ。
しかし、意外な人物が二人に料理を教えてくれた。芳磊である。
芳磊は市井でいろいろなことを経験していて、見聞を広めているのだ。
料理もそんな中で覚えたらしい。
おかげで半年もしないうちに彩姫は料理の腕が上がったのだ。
皇宮を出て軍に入るまでは莉英と分担をして冷宮を切り盛りしてきた。
「なぜ、公主が厨房を取り仕切るのですか?」
張俊は呆れているようだ。
それはそうだろう。
皇帝の公主は後宮の奥深くで教養を身につけたり、音曲を嗜んだりして日々を過ごしているというのが、世間一般での認識だ。
「冷宮で働く使用人がいなかったのです。古くから仕えてくれている侍女だけが母に付いてきてくれました」
張俊ははっとする。
李翔から公主の身の上を聞いていたからだ。
いかに廃妃とはいえ皇帝の妃であれば、最低限の生活は保障されていると思っていた。
「もしかして……食材の調達までされていたのですか?」
「いいえ。食材は定期的に届けてくれる方がいましたので……」
食材を届けてくれたのは芳磊だ。ご丁寧に野菜売りの変装をして……。
しかし、芳磊がそんな変装をしていても、後宮で咎める者はいなかった。
また皇帝が酔狂なことをしているとしか思われていなかったのだ。
「そうですか? 苦労されたのですね」
苦労知らずの公主だと思っていたが、彩姫は意外と苦労人のようだ。張俊は少しだけ彩姫に同情した。
「今朝は魚の羹にしようと……あっ! しまった!」
すっかり彩姫と話し込んでしまった張俊は肝心なことを忘れていた。
朝餉に出そうと思っていた羹に入れる魚がないことに気がついたのである。
「すみません。魚を仕入れに市場に行ってまいります。奥方様には野菜を刻んでおいていただきたいのですが……」
「それは構いませんが……張俊殿。市場まで行くには及びませんよ。魚はまもなく届くと思います」
「殿はいりません。張俊とお呼びください。魚が届くとはどういうことでしょうか?」
彩姫が自ら誰かに魚を届けてもらうように言づけたのだろうか?
そのような気配はなかったので、張俊は考え込んでしまった。
「あっ! 来たようですね。白耀! ここだよ」
彩姫が外に出て手を振っている。どうやら魚が届いたようだ。
次の瞬間、上空から大きな魚がぼとりと落ちてきた。
「えっ?」
張俊が上空を見上げると、薄白んだ夜明けの空に白い鳥が旋回しているのが目に入る。
白い鳥は甲高い声でピィと鳴くと、舞い降りてきて近くの木に止まった。
「白耀! ありがとう」
彩姫が白い鳥に向かってお礼を言うと、キュッと嬉しそうに鳴く。
「鷹……ですか?」
きりっとした目をした白い鷹は張俊をじっと見ている。
「はい。そうです。白耀と言います」
「へえ。白い鷹とは珍しい。奥方様の鷹ですか?」
「そうです。雛から育てたのですよ」
鷹を育てるのは難しい。雛から育てたのであれば成鳥よりは御しやすいが、親鳥の代わりにエサの取り方などを教え込まなければならない。
「それはすごいですね……って! そうではなくて! なぜ鷹が魚を!?」
「鷹は視力が良いので、川で泳ぐ魚を捕えることも可能なのですよ」
彩姫が丁寧に説明をしてくれるが、張俊が知りたいのはそんなことではない。
「そういう問題ではなくて……いえ。もういいです」
「そうですか? 良い釣り場があるのですよ。今度、張俊にも教えてあげますね」
いろいろと突っ込みたいことはあるが、どうも変わった公主であることは理解した張俊だった。
(変わり者の李翔様と案外お似合いかもしれないな)
そんなことを考えながら、彩姫の料理の腕前を眺めていた張俊である。
ちなみに彩姫の腕前は相当のものだった。




