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後宮のはずれの日が当たらないところに冷宮がある。
冷宮には呉氏という廃妃が住んでいた。
かつては皇帝の寵姫で皇后に次ぐ皇貴妃という地位にあり、後宮の実質上の主だったのだが、ある日、大罪を犯しこの場所に封じられてしまったのである。
呉氏の世話をする使用人は侍女の莉英だけだった。
莉英は呉氏の乳兄弟で、後宮入りする際にともについてきてきれた忠実な侍女だ。
そして彩姫公主の乳母でもある。
「皇貴妃様。公主がご挨拶にいらっしゃいました」
莉英が呉氏の居室に声をかけると、まもなく居室の扉が開かれ麗人が姿を現す。
「莉英。その呼び方はやめてちょうだい。わたくしはもう皇貴妃ではありません」
呉氏は十三歳で後宮に入内し、十五歳の時に彩姫公主を生んだ。
現在三十三歳であるが、若い頃から美しさは衰えず、まるで大輪の花のようだ。
「何を仰られます!? 皇貴妃様は朱徳妃の陰謀でこんな所に追いやられたに過ぎません!」
「莉英! 根拠のないことを言うのはおやめなさい。ここでは誰が聞いているのか分からないのですよ」
呉氏はしいと人差し指を口に当てる。その様さえ艶やかで美しい。
「ここには誰もおりませんよ、母上。母上と莉英。私の三人だけです」
莉英を庇うように呉氏との間に入り込んだのは彩姫公主だった。
「彩姫? まあ、ひと月ぶりですね。立ち話も何です。中にお入りなさい」
呉氏は莉英を咎めることも忘れて、ひと月ぶりに会う娘を居室に誘う。
「それでは失礼いたします」と入室の断りをすると、彩姫は母親の居室に入る。
「挨拶と言っていましたね? いよいよ行くのですか?」
莉英が淹れたお茶を飲みながら母娘で世間話をしていたが、話題が途切れたところで呉氏がそう切り出す。
「はい。明日降嫁いたします。真っ先に母上にご挨拶をと思いまして訪ねました」
彩姫は立ち上がると、母親に頭を下げる。
「わたくしよりも先に父上にご挨拶をするべきではありませんか?」
娘を咎めるわけでもなく、謙遜しながらくすりと呉氏は微笑む。
「父上には明日出立前にご挨拶するつもりでおります」
「何とつれない娘か」
突如、居室の外からした男の声に彩姫は警戒するが、声の主に思い至る。
冷宮とはいえここは後宮だ。
男子禁制の後宮に入れる男性はただ一人。
「明日嫁ぐというのに、余の公主は父親に挨拶をしてくれないという」
白蓮皇国の今上帝である劉芳磊であった。
「……父上。そのおかしな格好は何なのですか?」
彩姫は己の父である皇帝が派手な色合いの儒裙に、これまた派手な披帛を身に纏い、女装のような、いや、女装のつもりなのだろうが、おかしな格好をしているので、呆れた口調で疑問を投げかけた。
「似合うであろう?」
今年三十八歳になる芳磊だが、見かけは二十代後半くらいの青年にしか見えない。おまけに顔立ちが整っているので、女装が似合わなくもない。
そんな芳磊を重臣たちは敬意を込めて『妖怪』と陰で呼んでいる。
「似合うといえば……似合っていますが……何故女装をしているのですか?」
「これであれば誰も余だとは気づかぬであろう?」
何故か得意気に胸を張り、ドヤ顔をしている芳磊に彩姫は苦笑する。
確かに皇帝が女装をして後宮に来るとは誰も思わないだろう。そういう趣味があるのであれば別だが、芳磊には女装の趣味はない。
堂々と後宮に訪れることができるはずの芳磊がおかしな女装をしているのは、呉氏に会うためだ。
表向きは皇帝の寵愛を失ったとされているが、実は芳磊は未だに呉氏を愛している。
だが、ほかの妃たちがそのことを知れば、いかに冷宮送りにされた廃妃とはいえ、呉氏を放ってはおかないだろう。
「主上。そのような格好をしてまでわたくしに会いに来る必要はございませんよ」
呉氏は顔に憂いを含ませて、拳をブルブルと震わせていた。
「凛麗。余は……」
凛麗というのは呉氏の字だ。
「大体! その儒裙に披帛の色が合っておりません! 何ですか? 緋色の儒裙に翡翠色の披帛の組み合わせなんてあり得ません!」
服装の何たるかを呉氏は芳磊に力説する。
呉氏は代々三公を輩出している呉家の出だ。呉氏の父親呉浩潤は三公の大尉であり、高官の娘として育った呉氏だが、幼い頃から尚服局に憧れていた。
尚服局は皇宮の服飾を扱う部署である。
服飾に興味があった呉氏は尚服局を目指すべく独学で服飾を学んでいたが、十三歳の時に当時皇太子であった芳磊に見初められ、泣く泣く諦めたのだ。だから、今も服飾についてはうるさい。
「わたくしがコーディネートをして差し上げます!」
何やら聞き慣れない言葉に芳磊は首を傾げる。
「こ、こぉでねーと?」
「西大陸の言葉ですわ。服装を整えることらしいです。さあ、こちらにいらしてくださいませ」
呉氏に手を引っ張られて、芳磊は呉氏とともに奥の居室へと消えていった。
相変わらず仲が良い両親を生温かい目で見送る彩姫である。
「父上にご挨拶ができなかったな。まあ、あとでもいいか」
どうせ夕餉は両親と一緒に摂ることになるはずだ。