終章
その夜、彩姫は落ち着かず、そわそわとしていた。
夕餉の席で『今夜、いつかの続きをしよう』と李翔に言われたからだ。
続きの意味は聞くまでもない。真の夫婦になろうということだ。
その時は元気よく「はい!」と返事をした彩姫だったが、ついに李翔と結ばれるかと思うと、嬉しい反面恥ずかしくもあり、柄にもなく緊張していた。
おかげでじっとしていられず、居室をうろうろと歩き回っているのだ。
「最初はどうするのだったかしら? ええと……母上は何て仰っていた? あ! そういえば、母上から贈られた寝巻があったはず……」
いまだ彩姫が初夜を迎えていないと芳磊から聞いた呉氏は彩姫に寝巻を贈ったのだ。
衣装箱から寝巻を取り出した彩姫は絶句した。それは生地の薄い寝巻で、着れば確実に肌が見える代物だった。
『これを着て旦那様と共寝しなさい。きっと旦那様を骨抜きにできるわ』と呉氏が言っていたのを思い出す。
「……このような破廉恥な寝巻は着られません、母上。でも……これを着たら李翔様を骨抜きにできる?」
寝巻を抱きしめてしばらく葛藤した彩姫は思い切って、その寝巻を着てみることにした。
「試着してみるだけ……李翔様が来る前に着替えればいいのよ」
恐る恐る寝巻を試着した彩姫は恥ずかしさでその場で蹲ってしまった。
「きゃあ! これ丸見えじゃない!? 無理だわ! このような格好は李翔様に見せられないわ!」
急いで着替えようとした時に居室の扉が開いた。
「彩姫。悲鳴が聞こえたがどうかした! うわっ!?」
恥ずかしさで叫んでいた彩姫の声が悲鳴に聞こえたのだろう。李翔が急いで居室に入ってきたのだが、彩姫の寝巻姿を見て思わず自分も叫んでしまったのだ。
「さ! 彩姫! その扇情的な格好は何だ!?」
蹲ってはいても灯火に照らされた彩姫の肌は嫌でも見えてしまう。
一瞬で赤くなってしまった己の顔を手で覆いながらも、指の隙間からちらりと覗いているあたり、李翔も男性なのだ。
「李翔様! ち! 違うのです! これは……その……母上からの贈り物で……西大陸の寝巻だそうなのですが……」
言い訳をしながら、彩姫はさらに肌を隠そうと身を縮こませる。
「西大陸ではそんなすけすけの寝巻を着て寝ているのか?」
「変ですよね! 今着替えます!」
慌てて衝立へ駈け込もうとする彩姫を李翔は抱き寄せた。
「り、李翔……様?」
「着替えなくてもいい」
「……ですが……このような格好は恥ずかしいです。私は李翔様に嫌われたくありません」
彩姫は戸惑いながらも李翔の厚い胸板に顔を隠すように埋める。
「嫌うわけがないだろう。確かに驚きはしたがな。どんな格好をしていても彩姫はきれいだ」
「本当ですか?」
顔を上げた彩姫は李翔を見つめる。恥ずかしさからか頬は赤く染まっており、黒曜石の瞳は潤んでいた。そんな彩姫が堪らなく愛おしくて李翔はさらに彩姫を強く抱きしめる。答えるように彩姫も李翔の背中に手を回す。
「本当だ。愛している、彩姫」
「私も愛しています、李翔様」
しばらく、互いの体温を確かめるようにしていた二人だが、おもむろに李翔は彩姫を横抱きにする。そして、大切な物を扱うようにそっと臥牀に横たえた。
彩姫は大きく逞しい体に包まれて言いようのない幸福感を感じていた。
「李翔様の腕の中は落ち着きます」
「そうか。では、ずっと俺の腕の中にいろ」
今夜は不思議と襲撃者の邪魔はなく、静かに夜は更けていった。
張俊がけたたましい足音を鳴らして、李翔の居室の扉を開く。
「李翔様! いつまで寝ているんですか?」
「うるせえぞ。張俊」
昨夜、ようやく彩姫と結ばれた李翔は余韻に浸っていた。
だが、横に眠っているはずの彩姫がいない。
「彩姫!」
慌てて飛び起きる。
「奥方様ならとっくに起きて朝餉の用意をしていらっしゃいますよ。ところでいつ使用人を増やしていただけるのですか? 奥方様がかわいそうですよ」
とりあえず、愛想を尽かされたわけではなさそうだ。
「分かった分かった。手は打ってある。そのうちひょっこり来るだろう」
大露で別れた楊は身辺整理をしたら、この屋敷に来ると言っていた。
食堂に行くと、彩姫が笑顔で迎えてくれる。
「おはようございます、李翔様」
「彩姫、おはよう。いい匂いだな」
「今朝は李翔様の好きな猪肉の羹を作りました」
温かい料理に愛しい妻。
結婚生活はいいものだなと李翔は感動する。
「李翔様。父から使いがきまして、本日登城するようにと」
「昨日、ひと悶着あったばかりだろう。まだ何かあるのか?」
そうでなくとも、芳磊が後宮を解体するなどという爆弾発言のせいで大変だというのに。
「母が立后しますのでそのことでしょう。それと母が懐妊したそうです」
「ほお。それはめでたいな。彩姫に弟か妹ができるのか」
呉氏は今年三十五歳で高齢出産となるが、何となく大丈夫ではないかという予感が彩姫にはある。亡くなった弟がきっと守ってくれるはずだ。
「あの……私も早く李翔様の子供が欲しいです」
「そうか。登城をするのをやめて籠るか?」
「それはダメです」
きっぱりと断られて、李翔は少し傷ついた。
当分、紫桜国との戦はないだろうし、しばらくは李翔たちの出番はなさそうだ。
男装した凛々しい彩姫をもう一度見てみたい気もしたが、美しく愛らしい妻と平和に暮らすのも案外悪くないかもしれない。
最後までお読みいただきありがとうございました。




