お菓子をくれよ、ファントムブルー
「は、ははは、わははははは!」
夜の静けさのなかで高笑いする声だけがこだまする。
本来ならとっくに闇に吞まれてしまっているはずの街は人工的な光であふれていた。
みな世紀のショーを今か今かと待ちわびるように固唾を飲んでこの状況を見守っている。
その中心に彼――怪盗クラウンが堂々とした佇まいで立っていた。
中世ヨーロッパをイメージするその服装はまるでRPGのゲームにでも出てきそうな出で立ちで、白を基調としたその衣装は夜闇でもよく映える。
その青年は長いマントを大仰に翻し、被っていた黒いシルクハットを胸の前に持ってきてお辞儀をするとにっこりと笑った。
とはいえ目元の輝くベネチアンマスクで隠れて表情はほぼ口元でしか判断することはできないのだが。
「ポリツィストの皆様!この度はわたくしのショーのために集まってくれて感謝している!では次回もわたくしを、そして何より観客を大いに楽しませてくれたまえ!」
まるで舞台挨拶でもするかのように大げさに、しかし友人とでも交わす親し気な雰囲気でそう言うと文字通り彼はその場から消え去った。
それがつい昨日の出来事である。
テレビではどのチャンネルを見ても昨日現れた怪盗の話題で持ちきりだ。
あまりに変わり映えしない内容に飽き飽きして赤い髪をした少年はソファに身体を投げ出して寝転がった。
「凪、昨日またあの怪盗が現れたんだってなァ」
赤い髪の少年――織叶リトはソファに寝転がったまま自分達の昼ご飯を作っている兄に声を掛ける。
日本とはかけ離れた風景にここは何処だと問われそうだが、とある諸外国とだけ言っておこう。
海が近いこの街は窓を開けるだけで磯の香りに包まれ、そのなかでも少し高台にあるこの家はなかなかのロケーションを誇る。
そこに俺様はこのぼんやりした兄と、これまたぼんやりした双子の弟との3人で住んでいた。
飽きるほど見た怪盗の映像とキッチンに立つ兄の後姿を見比べる。
このクソ兄貴は。
あのアホな弟ならともかく、本当にこの俺様が何も気づいていないと思っているのか。
「そうらしいねえ、この街も物騒になったもんだ。リトも気を付けるんだよ」
例の怪盗とは似ても似つかぬのんびりとした口調で返された言葉は、ただ弟を心配する兄の言葉だった。
漫画とかではよくある設定だが、実はこの兄と俺様達は血が繋がっていない。
だから信頼してもらうことすら出来ないのだろうか。
「リト?どうしたんだい、難しい顔して」
突然黙ってしまった俺様を心配したのだろう、眉の下がった顔で振り向いた兄は何とも情けない表情だった。
「んん……ああもう!全くしゃあねーなあ!」
「ええ?突然どうしたの?」
きっと心配を掛けたくないだけなのだろう。
血は繋がっていなくとも付き合いは長い、そんなことはわかってる。
そんなことは勿論わかっていたのだが、俺様の性格はそんなに素直にできていない。
思っていた返事とは違って驚いたのだろう、兄は素っ頓狂な声で俺様の頭を撫でた。
「撫でんな!つうか俺様よりなきろの心配しろよな、あいつの方が弱いんだぞ」
「はいはい、そうだねえ」
そんなにほのぼのとした目で俺様を見るな。
もう色々と誤魔化してしまいたくてガシガシ頭を掻きながらまたソファに沈む。
それを見て兄もまた調理に戻るためキッチンへと踵を返していった。
「ただいまなんだね~!」
いい加減ニュースから離れたくてチャンネルを回していると間延びした声が家の中に元気よく響いた。
「あ、やっと起きたんだね!今日もリトはお寝坊さんなんだね~」
きゃらきゃらと俺様と同じとは思えない顔で笑いながら抱えていた紙袋をテーブルに置く。
その拍子に中から艶やかな赤い色をした林檎が転がり出る。
そのまま林檎がテーブルから落ちそうになるのを眺めていると、気付いたなきろが慌てて拾い上げた。
「リト、見てないで気付いたら拾ってほしいんだね!」
「あーうっせえな、テンション下げろ」
「うう、酷いんだね……」
あからさまに落ち込んでいますと頭を垂れつつも、俺様の様子を窺うようにちらりとこちらに視線を向けているのがわかる。
全くこの兄あってのこの弟ありだ。
血も繋がってないのにふとした仕草がそっくりで――なんて似た者兄弟か。
「もう いじめないの、それより朝ごはんできたから持って行って」
「わーい、わかったんだね!」
ある意味いつも通りの日常に今更気にする様子もなく諭された。
兄の言ういじめられた側のなきろもさっきまでしょげていたのが嘘のようにけろっと元気な返事をして動き出す。
まあ勿論?俺様は準備されるのをソファでさながら王のようにゆうがに待つだけ。
「ほらリトもだよ、動いた動いた」
なんてことはさせてくれない兄だった。
「……なきろが喜んでやってるだろ」
「働かない人の昼ご飯はありませーん」
さらになきろも兄の真似をして同じセリフを楽しそうに繰り返してきた。
こうしてタッグを組まれると逃げ道など存在しない。
「あーあー!わーったよ!やればいいんだろやれば!」
「そうそう良い子だねえ」
小さな子どもでもあやすように優しく頭を撫でてくるので、また勢いよく叩き落してやる。
この自分よりも大分と背の高いところにある控えな笑みに俺様は顔を歪ませた。
「ガキ扱いすんじゃねえよ、クソ兄貴!」
実は俺様がこの家で一番立場が弱いのかもしれない。
弱者の気分を知ったのは初めてだ。
リトはよく知らないけれどちゃんとお仕事をしているらしい。
お兄ちゃんも勿論お仕事をしているから、うちで働いていないのはボクくんしかいない。
お仕事をしていないからといって学校にも行っていないということはこんな昼間に家にいることでもわかるだろう。
ボクくんだって役に立ちたくて働いたことはあるけれど、どうも上手くいかなくて何度もクビになってしまった。
もうちょっと要領よく動けるような人間だったらよかったのになあ。
そんな役立たずのできることと言えば些細な家のお手伝いくらいだ。
駄目だ、やることがなくなるとこうやって落ち込んじゃうのはボクくんの悪い癖なんだね!
めぐるマイナス思考を振り切るように全力で頭を振る。
やりすぎた……なんだかくらくらするんだね……。
そんなことをしているとひょっことお兄ちゃんが自室の扉から顔を出した。
「ごめんねなきろ、ちょっとお願いがあるんだけど今大丈夫?」
「勿論大丈夫なんだね!なあに?」
やることができた嬉しさを噛みしめながらお兄ちゃんの下に駆け寄る。
そうするとお兄ちゃんがゆったりと優しい顔で笑うから、ボクくんもつられて笑った。
「夕飯に使う材料を買い忘れてたことに気付いてね、買い物お願いしていいかな?本当は僕が行ければいいんだけど仕事が終わりそうになくて」
「わかった、まかせてなんだね!」
必要なものをメモしてくまさんが描かれたお気に入りのエコバッグを装備したら準備は万端だ。
お昼の街は明るい賑やかさにあふれていて見知った近所のお店の人達から声がかかる。
買い物をしているとついつい他のお買い得品やおすすめのものを見てしまうのはきっとお店の人が上手なんだと思いたい。
なんだかんだ頼まれたもの以外にもいろいろと買ってきてしまったのはご愛敬ということで。
保存庫に入れとかないといけないものもいくつか買ってしまったから片付けにも手間がかかりそうだ。
「ただいま帰ったよなんだね~」
「おー」
予想外にも返事が返ってきて少し驚いてしまう。
朝から家にはいなかったからてっきり今日はお仕事なんだと思っていた。
「あれ リト今日はお仕事じゃないんだね?」
「なんか文句あんのか?」
顔だけなら見間違えられるくらいそっくりなのに表情がつくとまるで別人だ。
「文句なんてないんだね!それよりこれ、色々買いすぎちゃったから片付け手伝ってほしいんだね」
ここで変に追及したらリトの機嫌が悪くなるので悪意がなかったことを伝えてからお願いを付け足してみる。
しかし案の定お願いに対してめんどくさいという気持ちがわかりやすく表情に出ていた。
本人は無意識だろうがこちらはその顔を生まれてからずっと見ているのだ、大抵の表情の意味はわかる。
「あー……まだ仕事あった気がすんなァ」
「ないってさっき言ってたんだね!さあ行くぞなんだね!」
普通だったら力勝負では勝てないけど、こういうお願いをしたときとかには引っ張る腕を振りほどいたりしない。
口では色々と文句を並び立てるけれど、リトもボクくんにとっては優しい兄の一人なのだ。
天邪鬼な兄にも困ったものだね、なんて心の中で小さく笑う。
「おい、なァに笑ってんだ」
「なんでもないんだねー!……いたっ」
あまり良いことを考えていないとなんとなく感じたのだろう、わりと本気のチョップを落とされる。
ちなみに理不尽だというボクくんの意見は聞き入れてもらえなかった。
保存庫の扉を開けるとふわりと微かに埃が舞い、重い空気が入れ替わる。
この保存庫には買いだめしている日用品が雑多に片付けられていた。
とりあえず買い込んできた荷物を分けるとぼんやり立っているリトを呼ぶ。
「ボクくんはこっち片付けるからリトはそっちを片付けてほしいんだね」
「ハイハイ」
やっぱり二人で手分けして片付けるといつもより早い。
隣に置いてあった水のペットボトルが入った段ボールが半分くらい空いていたので整理して一つ箱を潰す。
そういえばそろそろ掃除道具がボロボロになってきていたんだった。
奥に掃除道具の替えが入っていたはずだと思い出して段ボールをよけると、ふとカラフルな色が目に入る。
「あれえ?」
「ア?どうかしたか?」
自分でも思ったより素っ頓狂な声が出てしまって不審に思ったリトがこちらに寄って来る。
見つけたものをいくつか手に取って彼に渡し、自分でもさらにいくつか袋から引っ張り出す。
「これって……」
それは数えきれないくらい沢山のお菓子が入った袋だった。
「なんだァこの大量の菓子は」
「うーん……知らないんだね~」
リトも知らない、ボクくんも知らない――そうなるとこれはお兄ちゃんのだ。
でもお兄ちゃんが一人でこれを食べるとは思えないんだけど。
じゃあ何だろうと口元に手を当てて悩んでいますという風にしていると、リトがあっと思いついたように声を上げた。
「ほら、あれだ。もうあれが今週末に迫ってるだろ?それで凪が準備したんじゃねえの」
「今週末?」
今週末……今週末……ううん、なんだろう。
察しの悪さに呆れた様子で溜息を吐いてリトが答えを教えてくれる。
「ああ、ああ~~!きっとそういうことなんだね!」
「まあこっそり準備してたんだろ、気付かなかったことにしてやれよ」
「うん!わかったんだね!」
折角気付けたんだからボクくんも何かしたいな、友達でも誘ってパーティとかしようかな。
楽しいだろう今週末のことを考えて楽しい気分で残りの片づけに取り掛かった。
いつもであればとっくに静まり返っている夜の街にパトカーのサイレンが鳴り響く。
夜中とは思えないほどの人が美術館の周りを取り囲んでおり、開館中以上に盛り上がっているのが皮肉なものだ。
そんな美術館に送られた予告状に書かれた時間はもうとっくに過ぎている。
美術館の中から聞こえる喧騒に観客達は湧きあがり、今か今かと主役の登場を待ちわびていた。
そして盛大なガラスの割れる音とともに、満を持して主役が光のなかに飛び込んでくる。
歓喜の声とも悲鳴ともとれる大きな歓声が溢れ、それに答えるように彼はマントを翻しながら恭しく頭を下げた。
「やあやあ今日もこんなに沢山の人が集まってくれて私は嬉しいよ!今回も楽しんでくれているかね?」
わあああと呼応する歓声はどこかコンサートを彷彿とさせる。
ヘリコプターからの光もまるでスポットライトのようで、ただの屋根の上がまるでステージのようになっていた。
「今日こそは観念しろ!逃げ切れると思うなよ!」
勿論それを良しとすることなく、彼を取り囲む一番のファン達――もとい警官達が威嚇するように大きな声を張り上げる。
しかし彼にしてみればそれすらも声援であり、ステージを引き立てるひとつのパフォーマンスとしか考えていなかった。
ふざけているようにも感じさせる彼の振る舞いに警官達は苛立ちをあらわにする。
警察としてもこれ以上虚仮にされるわけにはいかないのだ。
「我々のことをなめるな、泥棒風情が!そこを動くな!」
「なんと失礼な!私は泥棒ではない、怪盗だよ!」
間髪入れずに返された見当違いな彼の言葉に、まだ若い景観の青年が応戦する。
「どちらも同じ悪党だろ!」
その言葉に一瞬豆鉄砲でも食らったかのような顔をして彼の動きが止まる。
そう、それは過去に一度弟のひとりが怪盗である自分を評価したときと同じ言葉だったのだ。
改めて的確な弟の評価に笑いさえ込み上げてくる。
「……ふっ ははは、そうだな!私は悪党だ!」
愛する弟がそう言うのだ、間違いない。
「なッ……」
開き直った様子に驚いたのか、青年は押されたように一歩後ずさった。
その空いたスペースに逆に一歩踏み出すと少し開けた視界から観客席がはっきりと見える。
この時期になると落ち着いた色の服を着ている人が増えてくるはずだが、今日はおもちゃ箱をぶちまけたような華やかさがその客席には見られた。
「おや、今日は観客席にたくさんのお化け達が混ざっているようだね!なんと可愛らしい!」
「なに、話を逸らせて、」
何かを言いたそうな警官を無視して一方的な話を続ける。
「ははは、そうかそうか!怪盗であるこの私から奪ってやろうというのだね!」
そして警官達の合間を縫って屋根の軒先にくるりと踊り立ち、改めて観客席に向かって最高の笑顔で頭を下げた。
勿論警官達の静止も無視してそのまま隣の建物の屋根に飛び移る。
そんな些細なパフォーマンスにさえどっと歓声が沸く。
高まった興奮が冷めぬうちにとずっと担いでいた大きな袋を足元に下ろす。
その中に入れていた先程頂戴したクラウンを頭に被り、袋の中身を両手に掲げる。
「じゃあキミ達、掛け声の準備はいいかい?」
観客達の返事を確認してから、掛け声を上げた。
「「「「「「「「「「トリックオアトリート!」」」」」」」」」」
津波のような声に吞まれながら袋の中身をばらまいていく。
「は、ははは、わははははは!」
全てのお菓子を配りきると今度はその袋を大きく翻して――そしてそこにはもう誰もいなかった。
新聞にはお菓子を踊るように振りまいている怪盗の写真が一面を賑わせていた。
色んな意味で、すべてを悟る。
「ああ、これか……」
「リト、どうかした?」
呆れたように呟いてしまったのが耳に届いたらしい兄から不思議そうに声を掛けられた。
その右手には目玉焼きの入ったお皿、左手にはフライ返し。
なんとも平和な朝の風景だ。
「――いんや、何でもねえよ」
少し間の開いた返事に兄は首を傾げていたが、すぐに思い出したようにあっと声を上げた。
「ごめんだけどなきろ起こしてきてくれる?ルカとティモが迎えに来てるんだ」
「珍しいなァ、寝坊か?」
いつもはじじいみたいに早起きなくせに珍しいこともあるもんだ。
「昨日は楽しみでなかなか寝れなかったみたいだよ、じゃあよろしくね」
「うわめんどくせ」
とはいえ逆らったところで無駄な攻防なので大人しくソファから立ち上がる。
ふと思い出したように寝室に行く前に保存庫を覗いてやろうと外に出ると冷たい風が頬を撫ぜた。
もう冬がすぐそこまで来ているのだろう。
ちらりと覗いたそこにもうお菓子の山はなかった。