23-04
忘れる vs 癒える vs 受け入れる 04
魔獣並みの力を持つ今のストロには、素手だろうと武器を持とうと対抗できるはずがない。だから、はっきり言えば、クレインの行動はただの自衛にすぎなかった。
しかし、ストロにとってそれは違った。彼にとってそれは、紛れもなく立派な「裏切り」だった。
海唯のナイフを手に取るクレインを見て、ストロは怒りを露わに叫んだ。「短刀で俺を止められると思ってんのか!」
すると、まるで彼の言葉をアフレコするかのように、海唯も声を低くして突然叫んだ。「そうなるなら最初から、優しいフリして近づくなってんだよ!」
海唯は、何かを期待しているかのような表情で主役の一人をじっと見つめていた。自分が思わず声を漏らしてしまったことには気づいていない。その声は抑えた音量だったため、舞台上で奮闘している二人には届かなかったが、アキレスを驚かせるには十分だった。
それでも、自分が準備してきた舞台を凝視する海唯は、アキレスの視線に気づかない。
もし、戦いで人の性格が浮き彫りになるなら、ストロは怖がりな人だと言える。
自分から攻撃してきたくせに、クレインが逃げようとすれば、ムカつく顔でその逃げ道を塞ぐ。
クレインが恐る恐る振りかざされた拳に目を閉じると、ストロはまるでわざと外したかのように攻撃を逸らす。
クレインがナイフを構えたとき、ストロは再び激昂し、さらに攻撃を強める。
「クソ寒い天気の中、川で遊んでたよな?」
「あのブラコンに怒られたとき、お前、俺のせいにしたよな! まあ、俺もお前のせいにしたけどさ!」
「お前に魔力をあげて、キラキラする火花を作らせてたよな? もう一度やってみようぜ!」
「こっそり王宮を抜け出して、下町で遊んでたよな? 変なガキどもと一緒につるんでさ!」
「なあ! 楽しかったよな! クレイン!」
そう、ストロは一人で勝手にペラペラと話しかけながらも、クレインが何か言おうとすれば、その瞬間に拒絶する。
「……楽しかったのかよ」舞台の役者の台詞に応えるように、海唯は心の中でそう思った。
海唯の表情を見れば一目瞭然だ。彼女は何かを期待している。
今まで目にしてきた「結果」とは違う、ストロが自らの手で、これまで想像もしたことのない結果を導き出せることに期待しているのだ。
捨てられ、傷だらけになり、暴力という生き方しか知らないはずのストロ。それでも彼は生きようともがいている。その姿が海唯の胸の奥に眠る期待を刺激して、思わず彼女の表情を緩ませてしまう。
『楽しみだな』
彼女の頭の中に、またあの青年の声が響いた。
その一声が響いた瞬間、先ほどまでの期待は嘘のように消え失せる。代わりに浮かんできたのは、これまで見てきたのと同じ結果を繰り返してしまったストロの姿だった。
もし、戦いで人の性格が浮き彫りになるなら、クレインは誠実な人だと言える。
彼の反撃は、戦いに慣れていないせいか単純で一直線だ。ナイフを媒介に発した炎も、放つ前から狙いがはっきりとわかるほど分かりやすい。攻撃が避けられるのは当然の結果だった。
頭痛を振り払うように何度も頭を振りながら、クレインは繰り返し攻撃を受けていた。それでも彼は諦めることなく、相手を理解しようと声をかけ続け、言葉を紡ぎ続けている。たとえ相手が自分を容赦なく攻撃してくる存在であっても。
それはもはや、「優しさ」という陳腐な言葉では説明しきれないほどの行動だった。
避けようとしないから受けるしかない。一見すると消極的な行動に見えるが、実際のところ、クレインは避けるつもりなどなかった。それどころか、真っ直ぐにストロの拳に向かい、その腕を掴もうとすらしている。
そのため、避けているのはむしろストロのほうだった。
その事実に、庭の戦場を眺めている戦闘のベテラン二人は、何度かのやり取りを見ただけで気づいただろう。ストロとクレインの実力差は雲泥の差どころか、それ以上に大きい。
それにもかかわらずクレインがまだ意識を保ち、立ち続けている。これだけで、ストロがクレインを本気で殴れないことは誰の目にも明らかだった。
だが、その事実を理解していないのはストロ自身だった。彼は殴られてもなお立ち上がり、会話を試みるクレインの存在に苛立ちを募らせていた。
「あのさ、銀髪くん」海唯は真顔で庭を見ているアキレスに顔を向け、彼の袖を軽く引っ張った。
「どうした?」意外だという顔をしてアキレスが答える。
「クレインは何で避けないの? ……いや、待って! それ、本人に訊くべきだよな。聞き方を変えよう」海唯は唇を軽く引き締め、もう一度話し始めた。「挑発とか恐怖心とか以外で、殴られても避けない理由って何だ?」
アキレスはじっくりと考え込んでから、口を開いた。「相手は本気で傷つけようと殴っているかどうか、受けている側にはっきり伝わっていく。だから、避けないというより……『知りたい』のだと思う」
「知りたい?」
「人それぞれ理由があるかもしれないから、これは単なる俺の考えだが……」
「うん」
海唯は黒い瞳を大きく見開き、まるで初めて授業を受ける子供のように疑問をあらわにしながら頷いた。その反応を見て、アキレスは思わず声を柔らかくして続けた。
「何があったのか……を知りたいんだ」
「……お前、マゾ趣味かよ」
海唯が言いかけた瞬間、彼女の頬ががしっと掴まれ、続きはぐにゃりと濁った。
相手のことが知りたい。そして、理解しようと頑張っている。
確かに、それならクレインの行動を説明できる。息を荒らし、動きが乱れ始めているクレインを見つめながら、海唯はそう考えた。
一方で、アキレスの話を聞く前に海唯の目に映っていたストロは、ただ「逃げているだけ」のようにも見えた。しかし、本当に逃げているだけならここにはいないはずだ。ましてクレインと決着をつけようなんて行動には出ない。
もし、この「知りたい」という答えがストロの行動にも当てはまるとするなら……。
「不良くんはクレインを殺せないね」海唯はアキレスの手をそっと払いながら、了然とした表情を浮かべ、淡々と口にした。
その一言は、まるで海唯自身の中で一つの謎が解けたかのような響きを持っていた。
アキレスは半歩ほど前へ踏み込み、上半身を少し海唯のほうへ寄せて、彼女の話し声の最後の音をさらうように聞き取った。「この賭けをしたのは何のためだ?」
「私が、意味のない賭けをするとでも?」海唯の口調には少しの揶揄が含まれていた。その視線は庭にいる二人から一瞬たりとも外れることはなかった。
「負ける賭けをするとも思わないが」アキレスは再び彼女の視線に沿って、庭の二人の行動に注目した。
クレインはナイフでストロの拳を貫通した。というより、ストロがナイフに向かって拳を振り下ろしたのだ。軌道が弾かれたナイフの先端は、ストロの右目の下をかすめた。
その瞬間、クレインの瞳には金色の波が打ち寄せるように広がり、サッと金色へと変わっていった。
「銀髪くんは分かってないね。賭けの意味は勝ち負けじゃなくて……」海唯は手すりの上に座って言葉を続けた。
「自分が間違ってないってことを証明したいっていう意地だよ」
下の庭からクレインの叫び声が響いた。その鮮烈な声は、海唯には鎖が砕ける音のように聞こえた。
この瞬間、ストロもアキレスも驚愕した。
クレインの瞳だけでなく、ラベンダーの花畑のように靡く髪も鮮やかな金色に変わり続け、強烈な痛みの叫び声とともに、血肉を裂くようにして怪異の角が生えてきた。
それは、魔人の姿だった。
ストロが一瞬静止した隙に、クレインが持つナイフはその全刀身を彼の腹にしっかりと突き立てた。しかし、その動きは異常でしかなかった。左足を後ろに引いているにもかかわらず、クレインの体は右手に引っ張られるように前へ傾き、さらに不自然な角度から右手でナイフを突き刺したせいで、彼の体はまるで縄結びのように歪んで見えた。
アキレスは迷うことなく介入を試みたが、双方の位置関係と距離を考えれば、どう考えても間に合うはずがなかった。
そして、飛び出すアキレスを見ても、海唯は止めようとはしなかった。
「声がするのよ」
舞台の中央に突然現れた銀色の頭を見ながら、海唯は悠然と口を開いた。
「『殺せ、殺せ、殺せ! 大切な人を守るために殺せ!』ってね」
足を揺らしながらそう言う海唯の真っ黒な瞳は、舞台に上がったアキレスをじっと見つめている。
その表情を見たら、アキレスは王座の間で初めて海唯を目にしたときの、全身を駆け巡ったあの戦慄を思い返しただろう。しかし、舞台の表と裏の人々が交わることは決してない。
シナリオのない舞台を見下ろしながら、ナレーションをするかのように、海唯は誰にも届かない声で独り語りを始めた。
「精神が限界まで追い詰められた子供に、大切な人が大好きな人に殺される場面を見せられたら、その一言だけで刀を手に取る」
「暗闇を払ってくれて、初めて自分に笑顔をくれた子に裏切られた。そのせいで苦しくて、悲しくて、それでもかすかな希望にすがりつこうとする少年は、体だけ大きくなっていった」
「二人とも、知りたいと思っている。でも、気持ちだけで何とかなるような優しい世界ではない」
「それなら、どうする?」
海唯は、邪魔に入ってきたアキレスを攻撃するストロを見て、動くものすべてを攻撃対象と定めたかのように暴れるクレインに目を移し、そして最後に、ストロの攻撃を避けながらクレインを止めようとするアキレスに視線を留めた。
「傷って、本当に癒えるものなのか? 癒さないといけないものなのか? そのまま受け入れるほうが楽じゃない?」
アキレスを見つめながら、返事を求めることのない問いを投げかけた海唯は、おそらくその答えを聞きたくはないのだろう。
それでも、海唯は目の前の事実を認めざるを得なかった。
紫炎を纏うナイフは、体勢を崩し逃げられないストロの心臓に突き刺さる寸前で、その軌道を無理やり変えられた。
クレインは自らナイフを持つ手を引き、自分の剣先を制御するような素振りもなく、目玉を突き刺そうとする勢いで自分自身に刃を向けた。
滴り落ちる血は、潰された花びらを深紅に染めていく。それは、指が切り落とされるような痛みで少し意識が飛んだストロから流れた、まだ暖かい血だった。
体を半分焼かれそうなほどの紫炎を止めたのは、アキレスだった。先ほどの凄惨な争いが嘘のように、氷のダイヤモンドダストが舞い、舞台のフィナーレを告げた。
「……ごめんね、ストロ、ごめん……」クレインの声は震えていた。まるで割れ物を扱うかのように、ストロの顔を支え、その右目に残されてすでにかさぶたができた跡をゆっくりと撫でた。
「今更だけど、俺、本当に、そのつもりはなかった……ごめん、許さないでくれ」必死に涙をこらえるクレインの顔は下を向いたままだ。角は縮んで消え、髪の色も徐々に元に戻っていった。
そんなクレインの頭を無理やり自分の胸に押し付けたストロは、まるでしぼんだ風船のように芝生の上に横たわり、唇を噛んでいた。しかし、結局言った。
「一生、許さないから、死ぬまで俺を裏切ったことを償え」
ストロの言葉を聞いて、クレインはその表情を見たかったが、顔を上げようとしても叶わず、またストロに押された。
「ツンデレかよ」海唯はストロの前に立ち、見下ろして言った。
「は!? 誰だ、お前?」ストロは突然現れた自分と同じ黒い髪の人物に問いかけたが、海唯は彼の質問には答える気はないようだった。
海唯はクレインの背中を踏み、ついでに彼の下敷きになっているストロの腹の傷口に触れた。その瞬間、ストロは痛みに悶え、苦しそうな音を立てた。
「何、丸く収めた感を出してんのか?」そう言いながら、海唯はクレインをストロの上から蹴り落とした。「まだ、何も解決してないけど」
忘れる vs 癒える vs 受け入れる 完




