20-04
正面から歩いてきた久しぶりの知り合いを見かけて、挨拶するかを悩んでいる時、大体向こうも同じことを考えているから、挨拶しよ! 04
水母のような軟体動物たちが、どれも透明水彩のように、町というキャンバスの上で鮮やかな色を塗り上げている。
真昼の陽光の下では、さらに万華鏡のように眩暈を覚えるほど眩しい。その美しい景色の中に混じっていても、ひときわ目立っているのは、その水母の軍勢の腹の中で消化されている人々だった。
「ブクブク、ポヨポヨ、チョココ。ソレは食べていい」
リヒルは狐狼騎士団の人員名冊をチェックしながら、魔獣たちに死刑犯を消化させている。
「ブクブク~」
「ポヨポヨ~」
「チョココ~」
了解だと返事したようだが、この子たちの言葉を理解できるのは、おそらくリヒルだけだろう。水母たちは触手を伸ばし、リヒルが指定した人物を次々と体内に取り込んでいく。
「プチプチ。ソレ、ダメ」ビシッと指をさし、リヒルは「下ろせ」と命じるように人差し指をプチプチに向けてから、下へ動かした。
「プチプチ……」意味を理解したらしく、ゆっくりと持ち上げていた男を地面へ下ろす。
水色の触手が男の口からゆっくりと抜けきったのを確認してから、リヒルは手慣れた様子で魔道具を使い、男の口を塞いだ。
「ポーションは定期的に送っていたはずだ。なぜ魔法を使って辺境結界を破った? ストロ・ダース」
***
伯爵邸から少し離れた場所に、人の気配のない山城の遺跡が残されていた。外壁はすでに崩れ落ち、内部構造がむき出しになっている。今にも倒れそうな箇所は、辛うじて木の幹に支えられていた。
海唯が先頭を歩き、二人は苔に覆われた階段を上って屋上へ出た。そこで二人を待っていたのは、屋上に張り付いた蔓を齧って退け、疲れきった様子で四足を天に向けて寝転がっている白玉だった。
その白玉の横、きれいに整理された床の一角には魔法陣が描かれている。周囲には、あちこちに放り捨てられた蔓や雑草が小丘のように積もっていた。
「それでは、ひと~つ」海唯はその魔法陣を指さし、アキレスに訊いた。「この魔法陣の用途は?」
その声に驚いて起こされた白玉は、海唯の頭に乗り、何か話しかけようとしたが、海唯は口元に人差し指を立てて制した。
アキレスは蔓と雑草の小丘を避けながら、床に描かれた魔法陣をじっと見つめた。魔法陣はどこか欠けていて、とても正常に機能するようには見えない。「構成式が不完全だ。実用には耐えない。構成式の刻印から推測するに……召喚魔法の使い手が魔獣と契約する際に用いる通路の魔法陣か、あるいは異質魔法の使い手が描いた転送魔法陣だろうな」
正直な感想だった。
「へ~、そんなんだ~」
白玉の見解も、だいたい同じだった。
海唯は満足そうに微笑みながら、質問を続けた。「じゃあ、あそこの林にある、遺跡みたいな塔は何に使われてたの?」
「狐狼護衛団に……」アキレスは途中で言葉を止め、もう一度床の魔法陣を見下ろした。そして、ふっと口角を上げ、海唯に「狐狼護衛団」とは何かを説明しようとした、その時。
「知ってる。続けて」海唯の一言で、言葉を押し留められた。
やはり、彼女は知っていた。アキレスはそう思いつづ、言葉を続け、要点だけ告げた。「……連中は町への立ち入りを許されていない。そのため、必要な物資や食料を送る目的で、あの塔に転送魔法陣が刻まれている。だが最近は不足を訴えるばかりで、結局、フロンティエラ区に侵入し、暴れ回る羽目になった」
「……白玉~、どうしよっかな~」彼の話を聞きながら、海唯は頭の上の白玉をつかみ、あざとい調子で問いかけた。「そっちのほうが、ちゃんと説明してくれそうな気がするんだよね~」
「い、いえ……あの……わたくしに言われましても……」逆さまに揺らされながら、白玉は弱々しく答え、逃げるようにアキレスのほうへ跳んだ。
それを見て、海唯はただ微笑み、詠唱の“最後の一節”を唱えた。「――その一コマの安らぎに、檻を開け」
『罪人の囁きが現し世を超え、彼岸に届く。咎人が横になり、静かに眠る。属のない箱舟よ、その一コマの安らぎに檻を開け』
詠唱が終わると同時に、先ほどまで存在しなかった魔法刻印が床から浮かび上がり、アキレスの足元を囲んだ。次の瞬間、開かれた刺鉄の網が、一人と一匹をそのまま落とした。
「お前、ちょっと邪魔だからね~」
刺鉄の網が閉ざされる中、海唯はにこにこと手を振りながら、そうアキレスに告げた。
......
落ちたと思ったが、気づけば、簡単な必需品すら置かれていない、小ぎれいな部屋にいた。
光の魔石はなく、窓から差し込むかすかな明かりだけが室内を照らしている。見せ小屋のように生活感のない部屋の中で、ガラスのキャビネットに収められた物は、かえって目立っていた。
アルコール度数が高く、激辛な酒がぎっしり詰め込まれたキャビネットの隅に、一つのガラス缶があった。その中には、色とりどりの金平糖が半分ほど入っている。
だが、アキレスにはそれが何なのか分からない。それだけではない。この部屋には、これまで見たことのない物がいくつもあった。
ベッドなのに、頭側には奇妙な穴がいくつも空いている。それがベッドと一体になったコンセントだとは、彼は知らない。
ガラスのキャビネットの側面には、見慣れない箱が取り付けられている。それがワインキャビネットの温度・湿度調節器だとも、彼は知らない。
部屋の天井には、不自然に長い穴が開いている。それが天井裏に設けられたエアコンの吹き出し口であることも、彼は知らない。
そして、彼は気づいた。色とりどりの菓子が詰められたそのガラス瓶の前に、小さな鉄札が置かれている。それは文字なのか、模様なのか――彼には分からない。
だが、それは海唯がいつも身につけているネックレス、その鉄片に刻まれたものに、よく似ていた。
《NO.3-ROOM-DOG》
それだけだ。この小ぎれいな部屋には、ダブルベッドが一つとキャビネットが一つあるだけで、決して広いとは言えない。だが、感覚的にはやけに広く見える。
いや――広いというより、空っぽなのだ。
「どういうつもりだ?」アキレスは落ち着いた声で白玉に訊ねた。だが、その静けさが、かえって恐ろしく感じられた。
その問いに、白玉は自分の尻尾を抱え、前足で口を塞ぎ、体を丸めて俯いた。
「言えないか?」そう言って、アキレスはキャビネットを開けようとしたが、扉はびくともしない。
その問いに、白玉は両耳を立て、頭を横に振った。
「……分からないか?」
重ねて問うと、今度は白玉はゆっくりと頭を縦に振った。
「そうか。……外に出てもいいな?」
その言葉に、白玉は激しく首を縦に振り、アキレスをドアのほうへ促した。とはいえ、ドアはすぐ目の前だ。
「――!?」扉を開けた瞬間、アキレスは目の前に広がる光景に息を呑んだ。
視界いっぱいに広がっていたのは、果ての見えない海だった。どれだけ見渡しても陸はなく、ただ広く、冷たい海面が、そよ風に揺られて波打っている。
そして、今、彼たちが立っている足場――それは、孤立し、ちっぽけに揺れる小型のクルーザーだった。
「……ここはどこだ?」
その問いに、白玉は前足で口を塞ぎ、尻尾を抱えたまま、アキレスの周りを甲板の上でごろごろと転がった。
「なるほど……結界の中か」アキレスは何かを考えるように手のひらを差し出し、空から静かに舞い落ちる雪を受け止めた。「……これほどの結界を張れるとは、初めて見た」
思わず感嘆の声が漏れる。
だが同時に、この空間に身を置いて感じる、言いようのない寂しさと圧迫感に、背筋がぞわりと粟立った。
この結界は、ただ広いだけではない。海の匂い、船が揺れる感覚、雪の冷たさ、風が肌を打つ感触、厚い雲に覆われた空の色――。
結界だと知らされなければ、本当に転送魔法でどこかへ飛ばされたのだと思い込んでしまうほどだ。
「君は、ここに来たことがあるのか?」
「いいえ……私も、今が初めてです」白玉はそう答えながら、ぎゅっと尻尾を抱え、耳を垂らしていた。その様子からは、どうしようもない後ろめたさが滲み出ている。
アキレスの推測で当たっていたのは一つだけだ。――これほどの結界は、確かに前例がない。白玉にとっても、それは同じだった。
そして、この異様な結界は、すべて海唯一人の魔力によって成り立っている。
たとえどれほど完璧な構成式を書き上げたとしても、それを顕現させ、なおかつ長時間維持できるだけの魔力量がなければ、この結界は成立しない。
仮に大勢から魔力を借りて量の不足を補ったとしても、構成式への理解が伴わなければ、過剰な魔力は行き場を失い、マグマのように構成式の基盤を破壊してしまう。
もっとも、ここは実のところ、遺失物の内部だ。この穢の溜まり場に空間を築くには、聖魔法の力を頼るしかない。
そう考えたとき、白玉の脳裏に、こことは正反対の場所が浮かんだ。
あそこは明るく、暖かく、緑に満ち、花と薬草の香りが漂う美しい場所で――。
こことは、あまりにも違いすぎる。
「白玉」アキレスは白玉の名を呼び、そっと抱き上げると船内へ戻った。椅子はない。彼は部屋の床に腰を下ろし、白玉を膝の上に乗せてやる。「君は、何を言える?」
その問いに、白玉はびくりと耳を動かし、顔を上げてじっとアキレスを見つめた。
――海唯が林へ迎えに来た時、ここまでの展開を、白玉はすでに聞かされていた。そして驚くほどに、すべてが彼女の思い描いた通りに進んでいる。
アキレスが結界の扉が開いた瞬間に逃げ出そうとしないこと。
無理に結界を破ろうとしないこと。
結界に入ったあと、真っ先に自分へ問いかけること。
そのすべてが、海唯の予想から一歩も外れていなかった。
「…………穢の源は、その転送陣にあります。さらに、そこから湧き出る魔力を養分にして、周囲の魔素を侵食する速度が上がっています。七日も経たないうちに、林は枯れ、やがて町のほうへ向かうでしょう。……逆に言えば、それまでなら、まだ間に合います」そう言って、白玉はアキレスを見上げた。まだ何か言おうとして、口を開きかけ――そして、閉じた。
それは、海唯が「言っていい」と許したことをすべて話したからだ。
ただし、一番重要な一点だけを除いて。
――穢の源は、その転送陣から出てきたものだということ。
穢の源は転送陣にある。その事実だけを残し、海唯は意図的に「由来」を伏せていた。
「この場所は……一人だと、寒いよな」彼は淡々とそう言った。「海唯は、どう思うか分からないけど」
「……海唯さんを、助けてくれますか?」白玉は前足を伸ばし、アキレスの手をぽんと叩いて、思わずこの言葉を口から滑った。
「いいえ」アキレスは、考えることなく、はっきりと答えた。「あいつは、助けなんて必要ないと思うだろ」
彼は知っていた。
海唯は、何を見ても、何を思い出しても、何に遭遇しても、「誰か」を求めることはしない。必ず、自力で何とかする。
たとえ、その「誰か」が手を伸ばしても、彼女は距離を取る。
彼女には、同情も慰めも必要ない。
引き戻される必要もなかった――ただ、離さない人がいれば、それでよかった。
「……何度でも」ひんやりとした床に座り、アキレスは窓の外を見て呟いた。
結界に入ってから、重く冷たい空気に押し潰されるようで、自分の体温すら感じられない。この空間で感じられる、たった一つの温もりは、今、彼の膝の上にいる白い狐の体温だけだった。
そう思った瞬間、喧騒の中で、たった一人で立ち尽くす黒い影が、鮮明に脳裏に浮かんだ。
――こんな場所に、海唯はずっと、一人でいたのか。
そしてこの時、白玉もまた別のことを考えていた。
「……なん度も……」白玉は頭を垂れ、そう呟いた。「そうですか……そういう、ことですか」
その獣の瞳孔が、ゆっくりと縦に細くなった。
正面から歩いてきた久しぶりの知り合いを見かけて、挨拶するかを悩んでいる時、大体向こうも同じことを考えているから、挨拶しよ! 完
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