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傭兵聖女  作者: 崎ノ夜
159/159

32-04

お前が記憶喪失なのか?私がなのか? 04


 誰も気づかなかった。薄水の下駄の音が遠くで響き始めたその瞬間すでに、少女が梁の上から軽やかに身を翻し、何事もなかったかのように、静かに一つの部屋へと姿を消していた。


 彼女がドアを開けるたびに何度かそうだった。アキレスの視線は常にドアの方へ向けられていて、音を聞いて顔を上げるのではなく、最初からずっと入り口を見つめていたようだ。


 たとえ少女が「魔人は入ってこない」と言っていたとしても、彼はおそらく信じていなかったのだろう。もっとも、信用がないことについて少女は特に気にも留めていなかった。


 ――だが、今日ばかりは少し驚かされた。


 少女はしばらく呆然と立ち尽くし、ようやく我に返るとドアを閉め、ゆっくりと口を開いた。「アキレス、お前……本当にヒマなのね」


 アキレスはいつものように日課をこなしている最中だった。少女が入ってきたとき、彼は片手で逆立ちしたまま腕立て伏せをしている。その翡翠のような瞳は、少女の首筋についた飛び血の痕を見ていた。


「他にやることがない」彼は起き上がり、服を整えると、「ありがとう」と言い、少女の手から今日の二食目の食事とコルフへの薬を受け取った。


 実は少女が入ってその服に血が付いているのを見た時、アキレスは驚いた。もちろん顔には出さなかったが。


 少女が毎回戻ってくるたびに戦った痕跡がある理由を、彼は一度も尋ねたことはなかった。ただ黙って拭いてあげるだけだった。


 少女も、彼はただ血を見るのが嫌いなのだと思っていて、その動作に悪意もないと悟り、勝手にしておいた。


「食ってから、コルフを叩き起して、薬飲ませたら、ここから離れんぞ。もう熱下げただろう。食料も多めに持ってきたから、片付けてな」少女はいつものように寝椅子で横になる。親指で後ろの寝台を指してから、だるい口調で告げた。


 彼女の声に不機嫌な色を聞き取れて、アキレスは箸を置いて、尋ねた。「何かあった?」


「……」少女は目を細くして彼を見つめたら、パッと起き上がり、文句を言った。「あのクソ野郎!血を魔人に渡すなってよ!知るかアホ!てめーら魔族の掟なんて知ったこっちゃねーよ!」


「あのクソ野郎」とは魔王のことだと、アキレスはすぐに分かった。


「そうなら、そうで、先に言えや!だよな!」


 アキレスは黙々と頷く。「うん。そういう面倒な掟があるなら先に言ってほしい」


「な!」少女も頷いて、続けた。「私だって、ろくに魔王城を回ったことねーし!賭博場なんて居るのもつい最近で知ったつうの!つうかさ!それ、完全に薄水のくそアマのせいだろう!」


「うん」


「な!」


「でも、汚い言葉はよくない」


「……うっせー」ふんっと、発散したから、少女はまた横になった。「はあー、待ち伏せするつもりだが、いい情報を盗み聞きしたから、チャラにしてあげよう」


「いい情報?」


「ああ、帰る方法」少女は天井の縞をポーっと見つめていて、呟く。


 だから、アキレスが箸を持もうとした手が一瞬ピクっと止めたのを彼女には気付けなかった。


 座り起きたコルフは最初に目に入ったのは、なんか仲良さそうに話している二人だった。彼が部屋を見回り、寝床の隣にある小さな机に置いてあった薬に視線を止まった。「うるさい」


「あ?」少女は僅かに顔を傾いて、喧嘩腰で言い返した。「まずは命の恩人に感謝しろ。カス」


「はあ!?お前のほうがカスだ!」コルフは口元をピクリと引きつらせ、再び激怒した。


 なにしろ、王国の第一王子である彼に、これまでそんな口を利いた者などいなかった。ましてや、面と向かって罵倒するなど。


「あ!?」一方、少女はただ気だるげに背伸びをし、首をかしげた。まるで地面の埃でも眺めるような顔で、淡々と返事をする。「私がカスでも、お前がカスかどうかは関係ない。で、お前の言ったこと、結局お前自身がカスってことを否定していない。つまり――お前は自分がカスってことを認めている」


「っふ」アキレスは我慢できずに、笑いを吹き出した。


 コルフはしばらくの間、声を詰まらせて何も言えなかった。そして、彼は急に少女の言葉尻を捉えたかのように、少女を指さして言った。「ほら、お前自分がカスだって認めたぞ」


「ええ、否定しないよ。私は自分を客観的に見える。どっかの王子さまと違ってね」


「……」コルフは言い返したいのに、どう言えば少女の口を封じられるのかわからず、もどかしさに布団を激しく叩いていたが、それでも一言も言葉が出てこなかった。


 彼が我慢しすぎて内傷を起こしそうになったのを見て、アキレスは二人の間に立ち、軽く咳払いをするとコルフに言った。「早く薬を飲め。帰るぞ」


 そして正気を取り戻したコルフが飲まないかもしれないと心配して、付け加えた。「妖精の薬草だ。何度も飲ませてやったから、大丈夫だ」


「どこが大丈夫だよ」そうぶつぶつ文句を言いながら、コルフは大人しく薬を飲んだ。


 魔王城を出て、少しだけ歩いたら再び振り替えたところ、魔王城の影すら見当たらなかった。


 これは一陣の吹雪によって視界がぼやけたためであった。しかし、去り際には一粒の砂さえもなく、あたかも来訪者に魔王城の具体的な位置を知られまいとしているかのようだった。三人の背後には、すでに天を覆う灰白色の幕が垂れ下がっていた。


 コルフは目の前に広がる荒漠を前に、足を止まり、唖然した。


 彼は地面を少し爪先で蹴ってから、しゃがんで指先で拾ってみたら、それは砂だった。彼が知っている砂は黄褐色だ。しかし、今、足の爪先から無限のように伸びているのは雪原のような景色。後ろで吹き上がるのも吹雪ではなく、砂嵐だと分かった。


 果てしなく広がる白砂原の中、まばらに肢体がバラバラになった妖精たちがいた。灼熱の太陽に曝され、干からびた石のようにひび割れ、白砂に半分埋もれている。まだ完全に息の根を止められていない者も数人おり、弱々しく呻き声をあげていた。


「さっさと行こう。白銀大森林を迂回するなら、徒歩だと少なくとも二ヶ月はかかるから」少女はそう言ったが、その手には二頭の馬の手綱を握っていた。まさに少年たちが薬草を盗みに行った時に騎乗したあの二頭だった。


「お前!どこから?」コルフはその馬を見て、少女に尋ねた。


「なんの話だ?」彼女は不思議なバランスで馬の背であぐら座して、背中をアキレスのに寄りかかりながら、手を揺らいた。「ここに残りたいなら、どうぞ」


 コルフは黙々と馬に乗った。先ほどの妖精の屍体といい、今彼女が連れてきた馬といい、それだけ見たら分からないほど彼は馬鹿じゃない。


 大人たちが悪口で叩いている悪犬は、彼らの後を付いて報復しようとした妖精を、少女に返り討ちにされたのだ。


 彼は今でも、草の香りが薄く漂う林の匂いも、ひときわ軽やかな影が跳ねている景色を覚えている。


 妖精は笑っている――声は聞こえないが、揺れる肩と弾む足取りが、それを雄弁に物語っていた。琥珀色の瞳が細まり、愉悦に濡れた煌めきを放つ。指先には、遊戯のためだけに伸ばされた細い刃のような光がちらつく。


 コルフはアキレスと前後を走って逃げている。泥に滑りそうな足を何度ももつれさせながら、荒い呼吸で前へ前へと身を投げ出していく。肩越しに振り返るたび、木漏れ日の隙間から妖精の薄い羽がちらりと光り、そのたびに背筋を凍らせ、さらに必死に走る。


 妖精の影は地面を滑るように近づき、時にはふわりと宙へ浮かび、コルフたちの足取りに合わせて軌跡を変えた。指先が届きそうで届かない距離を、わざと保ち続けている。羽ばたきの生む微かな風が、コルフの首筋を掠める。冷たい汗が一筋、背中を流れた。


 落ち葉を巻き上げながら、妖精は輪を描くように少年たちの周囲を跳ね回る。影が陽光の中に吸い込まれ、また木陰から現れ、そのたびに彼らの逃走経路を寸前で塞ぐ。


 捕まえるつもりはまだない――そう思わせる身のこなしだった。


 その時、ひときわ強い風が吹いた。妖精の翅が淡い光を散らし、舞うように急接近する。


 コルフは荒い息を飲み込み、転びそうになりながら藪へと飛び込む。細枝が頬を裂き、涙をこらえる視界の先に、金色でなめらかな髪の毛がふわりとコルフの手に握られて、ちぎられた。


 もし、アキレスが居なければ、コルフはとっくに妖精に手足を切られていたのかもしれない。とっくに魔人の手に落ちていたのかもしれない。


 でも、アキレスはコルフの護衛だ。小さい頃からずっと一緒に居たし、彼はあまり自分のことを好きではないとコルフは分かっていても、護衛として怠ることはないと知っている。


 なら、この悪犬はどうだ?


 彼女にそこまで助けてもらう理由はないと思ったから、コルフは今でも少女のことを警戒している。


 コルフはちらっと少し前に走っている馬を見た。少女は襟で鼻口を防いていて、寝ているようにも見える。


 ***


 夜の砂原は寒くて、少女は馬の隣でしゃがみこみマントを体を包み、両目だけ外に出している。


「野営スキル。最高だな」くしゃみを連発しながら、彼女は火を炊き上がっているアキレスを見た。


 巨大の岩の穴の中は火に照らされて、三人は火を囲んで座り、影が岩壁で揺れている。アキレスが外服を少女にあげたのを見て、コルフは我慢できずにやっと聞き出した。「お前ら何なんだ?」


「くしゅッ」少女はくしゃみで返事した。


「何が?」アキレスは尋ねた。


「知り合い?どこで?なんで俺は知らない?」コルフは膝を抱いて、アキレスを見た。


 そう尋ねたが、アキレスが僅かに口を開けたのを見て、コルフは急に話題を切った。「いや!待て!やっぱいい!俺、知りたくない!」


「ねえ、お前ら二人、さっさと寝ろ。夜明け前が一番安全なんだから、そのうち起きられなくなっても知らないよ」少女は白い目をむきながらそう言うと、馬のお腹にもたれかかって目を閉じた。


「は? どういう意味だ?……」コルフの言葉は途中で途切れた。それは、岩穴の外から――ひゅ、と、耳を裂くような鋭い音が届いたからだ。


 風の音、ではない。どう聞いても違う。まるで“鞭”か、“長い刃”のようなものが空気を踏み潰す勢いで振り下ろされ、風そのものを裂いたような音。


 アキレスは眉をひそめ、反射的に外の様子を確かめようと岩穴の縁に手をかけ、頭を出しかけた。


 その瞬間――少女の細い指が彼の服の裾を掴んだ。


「?」アキレスは少女を振り返って見た。


「頭出したら、首無しになるよ」そう言ってから少女はまた目を閉じて、手を放した。「それがいいなら、どうぞ」


「……」そして、アキレスはまた黙々と火の傍に座った。


「……なんで知ってんだ?」そう聞いたのがコルフだった。


 少女はちらっと彼を見て、ため息をしたら少しだけ服を巻き上げて、腰側を見せた。そこには刃物ではなく、鋭い何かに肉を抉られた痕があった。「精霊にはまだ撃ちところはあったが、自然は無理だ」


 その言葉は魔王が言ったものだが、それを少年たちに伝わる必要はなかった。


 アキレスはその傷を見て、淡々としている少女を見た。


 コルフはびっくりしたように暫く黙っていたら、また聞き出した。「魔王はなんで精霊を殺す?魔法が使えなくなるって不利じゃん」


 これは、全ての種族が聞きたくて、聞きたくて仕方ないことだったが、その答えに魔族の皆も答えられない。それに、魔王本人に会えることすら叶えられないから、その答えは未だに謎のままだった。


 魔法を一人占めしたいなら、まだ分かるが、精霊を殺すとは魔法をこの世から消すことになる。それのどこか利があるのか?


「寝ろ」少女はそれを話してから、黙りした。


 翌日。砂原の水辺線が金色に染まった頃、アキレスはすでに目を開いた。こんな場所ではよく眠れないのだろう。しかし、目を開いた彼は少女が消えたのをすぐに気づいた。


 彼は周りを見た。火はまだ燃えている。少しだけ岩穴の中に吹き込まれた砂にも足痕がなかった。


 外を出て、入り口のところを見たら、少女は洞穴の入口の縁に座っていたのを見つけた。


 声をあげようとしたとき、アキレスは急にまた口を閉じて、歩みを止まった。彼は急に思った。「少女は音に反応して、小刀を投げてくるかもしれない」と。その考えはどこから、なぜそう思ったのかも分からない。


「へいき、起きてるって」少女は壁に寄りかかって立ちあがる。


「……コルフを起こしてくる」アキレスはそう言った。


 何十日も白砂原の景色しか目に入らないから、コルフはもうすっかりこの白くて、灰色くて、汚れていて、まるで自分が実は色盲なんじゃないかと錯覚しそうな視野に慣れていた。


 それでも、彼は毎度、岩の洞窟を出た瞬間、目が潰されたように顔をギュッとしかめる。


 そして──今日はいつもと違う景色が広がっていた。


「うわっ!なんだ!」コルフは咄嗟に両手で目を覆い、その指の隙間から、おそるおそる外を覗いた。


 目の前にあったのは、一面の白銀だった。


 白砂原の濁った白とは違う。灰ひとつ混じらない白銀の光が、森全体から刃のように弾けている。


 それはまるで、大地までもが凍りついた宝石の化身のようで、息を吸い込むだけで胸の奥まで冷たさが刺さった。


 白銀大森林だ。


 風に揺れた枝がきらり、と音を立てるたび、何かが砕けるような鋭い煌めきが走る。規模も、雰囲気も、ただの森ではない。


 凍てついた神の庭に、誤って足を踏み入れたような感覚があった。


 もっど、コルフを驚かしたのは――


「昨日はなかったよな!?」コルフは思わず声を上げた。


「生き物、だからだよ~」少女は彼の反応を面白がっているようで話した。


「動けるってことか!?」コルフの口はもっと大きく開けた。


「いや。蜃気楼のようなものだと思っていい。でもただの幻覚ではないよ」少女は昨日の夜、二人に見せた腰の傷痕のところを指した。




 お前が記憶喪失なのか?私がなのか? 完


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