29-04
俺の兄ちゃんがこんなに可愛いわけがない 04
「寝たら?」アキレス少年の、無理に大人びる幼い顔には、はっきりと疑問の色が浮かんでいた。
「見ての通り、私は今、怪我してる」少女は自分の首と、裂けた服を指さした。
「……俺は君に何かをしようとはしない」少し怒ったように返す。少女が寝ている間に、自分に攻撃されることを警戒しているのだろう、と彼は思った。
「いや、そういう問題じゃない」彼女は手を振って話を続ける。「ここは慣れた場所じゃないし、怪我もある。つまり、音に反応するんだよ」
「?」
「運悪く、石ころがお前の傍に落ちた時……それが、体に穴を開けられる瞬間かもしれない。それでもいいの?」そう言いながら、少女は刀を軽く指で叩いた。
「…………頑張って、起きてくれ」彼は黙々と、前に置かれた刀を再び拾い上げた。
「だろうな」少女はふっと、今の彼の表情は悪くないと思った。「じゃあ、少しくらい話に付き合ってもらおう。ここから出る方法とか」
そう言って立ち上がった少女は、体を軽くほぐしながら、湖の周囲を観察し始めた。
「源ノ池の水で綻びを作るとか」アキレスは、湖に散らばる岩を渡りながら言った。
「湖を潜って外へ出るとか」少女は何気なく湖水を眺め、細い流れの中に漂う数枚の枯れ葉を見つけた。
……夏のはずだ。さっき通った道の木々は、どれも新鮮な緑葉を茂らせ、枝先には赤い花が咲いていた。
なのに、ここには茶色く乾いた葉がある。湖の奥で何が起きているのか、と少女一瞬、疑問が胸をよぎる。けれど、今は深く考えず、その違和感を水面の奥へと沈めた。
「水に入ったらダメだっ……」
彼の言葉を、少女が途中で切った。「おい!今はな、提案段階だ!否定すんな!」
「…………源ノ池を消すとか」アキレスはさらに別の案を口にした。
「え、できるの?」
「『提案段階』だっけ?」彼は少女を見て、冷たくそう言った。ほんの少し、口角が上がったようにも見える。
「……お前、こういう奴なのか」少女は、湖の光に照らされた翡翠色の瞳を見た。「まあ……悪くない」
洞窟の中では、どれほど時間が経ったのか知るすべもない。ただ、気温が下がったことで夜になったと推測した。
少女の連続したくしゃみが、音の振動で小さな石ころを動かす。
それでも彼女は、刀を地面に突き立てる作業をやめなかった。
二人はそれまで出していた案を整理し、地面に水の通り道を作って、源ノ池の水が流れ出せるようにした。
事前の実験で、どんな物でも源ノ池に触れた瞬間、一瞬で跡形もなく消えることが分かっていた。そのため、その池の水で龍の鱗に穴を開ける作戦を立てたのだ。
「首」アキレスは急にそう話しかけてきた。
「?」少女は彼の言葉の意味が分からない。
「血が出てきた」
鮮血はついに黒衣を破って溢れ、首筋を伝いながらゆるやかに滲み、彼女の鎖骨のくぼみに小さな血の池をつくった。
「ああ」少女は、まるでそれが日常の所作であるかのように、衣の破れた端を再び引き裂き、首の傷を手早く塞ぎ直すと、ついでのように襟で鎖骨の血だまりを拭き取った。
アキレスは、彼女の傷を拭おうとするかのように手を差し出したが、その手は半ばで止まり、戸惑いを浮かべたまま彼女を見つめた。結局、一言も口にすることはなかった。
それが取り繕ったような悪意か、剥き出しの憎悪か、あるいは安っぽい同情か。少女にはそういう視線なら見慣れている。だが、アキレスのように、訳もなく、しかもどこか可笑しさを帯びた目を向けられるのは、彼女にとってこれが初めてだった。
「お前の頭の中って、本当にどうなってるのかな〜」少女は珍しいものでも見るような目で彼を見たが、何かを言いかけたところで、また盛大にくしゃみをした。
「っはくちゅ!」
顔中に唾と鼻水を浴びたアキレスは不満そうな顔をした。
「あ――......。悪い悪い。わざとじゃ……」少女は自分の服の血のついていない部分で彼の顔を拭いたが、「っはくちゅ!くちゅ!」またくしゃみをした。
「……」アキレスは呆れた顔で目を細め、ポケットからハンカチを少女に渡した。
「……悪い、まじで」
***
二人は洞窟の地面を掘り進め、やがて浅い水路でつながる別の貯水穴を穿ち出した。湖水をそこへ引き入れた後、“源ノ池”の透き通る水を龍鱗の継ぎ目へと送り込む。
左右に分かれて水路の両側にしゃがんだ二人の子供は、頬を手で支えながら、いくら目を凝らしても見えない“源ノ池”の水をじっと覗き込んでいた。
「ビクともしない」少女は退屈そうに呟き、足元の石ころを適当に放り込む。「本当に水は……え!?消えたな……」
石は、そのまま浅い水路の真ん中に静かに沈んだ。
「なんで?」
少女の問いに、アキレスも首を振る。
「湖の水に触れてみる」そう言って彼は湖へ向かい、指を少しだけ入れてみた。水の中で指を揺らすが、異様な感覚はない。
「飲んでみる?」少女が提案する。
アキレスは両手で水をすくい、そのまま口に運んだ。「……いける」
「おお、おめでとう。じゃ、お前はその辺で寝てていいよ。七日を待つのも体力が必要だ」
その口ぶりは、まるで彼女自身は救い出されるつもりがないようだった。今までやってきたことも、外の救助が来るまでの時間を彼に稼がせるためだけのように思える。アキレスには、彼女が何を考えているのか理解できない。だが、同時に知りたいとも思った。
彼は少女の手を掴み、自分の傍に引き留めた。「君は?……自力で出るつもりか?」
先ほどの彼女と魔王の会話、そしてこれまでの行動が脳裏によみがえる。彼女は一度たりとも、誰かに頼ったことがなかった。
「あのなー」少女はむっとして言い返す。「お前、おとなしく寝てれば助けは来る。それはいいけど、私はこれ以上ここにいたら殺されるのを待つことになるんだよ? それとも何? そのほうがお前の目的? いい手段だな、おい」
少しぽかんとした後、アキレスはようやく彼女の言葉を理解した。彼の目の前にいる少女は、“癲狂の悪犬”と呼ばれている。
『心を持たず、冷血非情、天をも恐れぬ無慈悲な裏切り者。月すら震え上がる凶悪非道の極みであり、尽くすべき悪の化身』
と、大人たちは口をそろえて言う。
「違う」アキレスはそのすべてを否定した。
「ほう~、じゃ、離せ」彼女は淡々と返す。
「俺も早く出たいと思ってる」彼は咄嗟にそう口にした。
「……だよな」納得したように頷くと、彼女はこれ以上追及せず、彼の手を引いて洞窟を回る。「なんか気づいたことがあればすぐ言ってね」
洞窟内は湖のある場所を除き、ほかの小道は入り組んでいて、三歩先も見えないほど暗い。二人で行動するなら、無理に離れず手を繋いで進むほうがむしろ効率的で安全だ。
「分かった」
二人は肩を寄せ合い、ぎゅっと手を握り合ったまま、もう一方の手で壁を確かめながら、ゆっくりと進んでいった。
ふいに、少女が足を止め、眉をひそめる。アキレスの耳元で、低く囁いた。「息をするな」
鼻腔の奥が、何か濃く粘りつくものに塞がれたように重くなる。刺すような悪臭が呼吸に乗って脳天まで突き抜け、目尻がツンと熱くなった。腐った卵に湿った土、そしてタールの甘ったるさ――吐き気を誘う混ざり物だ。
足が滑り、「ブチュ」と音を立て、靴底が冷たくぬるりとしたものに沈む。
アキレスは右手にかかった急な重みを感じ、即座に反対方向へ力を込める。少女を引き上げ、しっかりと抱え込んだ。
だが、少女の忠告を思い出し、口は開かなかった。
視線を落とすと、灰色がかったぬめる物が地面一面に広がっている。表面には気泡が浮かび、汁を溢れさせ、白い煙を上げていた。
息を止めたまま、少女は瞬時に悟る――腐肉だ。空気ごと、その気体に侵されている。
少女はアキレスを引き、湖へと駆け戻った。水辺にたどり着くと、大きく息を吸い込む。アキレスも荒く息を吐き、「説明しろ」という目で彼女を見た。
水面に少女の髪が触れた瞬間、白い染料がゆるやかにほどけていった。流れに溶けるように、彼女の髪と瞳から白が抜け、静かに本来の黒が戻っていく。
アキレスはその変化を黙って見つめていた。まるで夢が醒める瞬間を、見届けるかのように。
彼女はそれを気づきなくて、顔を洗いながら話した。「奥には大量の腐肉が積み重なってる……何の肉かなんて、訊かないほうがいい」
かまど室に居たころ、彼女は屍体といる時間のほうが長いからよく分かる。――あれは、人間の肉だ。
おそらく、今は洞窟となった龍に食われ、その食べかすが何十年も“源ノ池”の力によって保存され、腐ったまま残っていたのだろう。あの枯葉のように。
「お前は匂いを感じられないから理解できないけど……あれは硫化水素、メタン、アンモニア、アミン類、有機酸などの混合物だ。空気に混じって一定濃度を超えると、火花や静電気ひとつで爆ぜる。しかも高濃度の硫化水素は致命的だ。嗅覚神経を一瞬で麻痺させ、匂いを感じなくても、もう命が奪われ始めてる」
少女は、ぽかんとするアキレスを見て、補足した。「理解してないのは分かるけど、こっちはちゃんと説明したよ?……お前の知能に合わせられる説明をできないことに、ついでに取るに足らないお詫びでも言ってやろうか?」
言いたいことは山ほどあるようだったが、アキレスは口を開き、そして閉じた。拗ねたように、彼女を睨んでそう言った。「そんな話し方をしてると、いつか痛い目を見る」
睨まれるのは慣れているはずなのに、彼にそうされると腹が立つ――理由は、彼女にもわからない。「っち……洞窟を爆発してみよう。先の腐肉はちょうどいい」
***
少女は、致命的な過ちを犯してしまった――無知という、彼女が最も忌み嫌う理由による過ちを。
彼女は知らなかった。普通の、ありふれた、どこにでもいる十四、五歳の子供に、爆発から自分を守る術などあるはずがないことを。
ドゴォ――ッ!
洞窟全体が巨大な拳で打ち据えられたように揺れ、気流が二人を飲み込み、壁に叩きつける。熱気と腐敗臭が渦を巻き、岩が砕け散った。まるで地底に潜む悪意が、一気に噴き出したかのようだった。
気づけば、少女は三人の大人たちに押さえつけられ、土の上で跪かされていた。
片手には刀。もう片手では少年の腕を引きずる――爆発の瞬間でも、“癲狂の悪犬”以上に恐ろしいものはなかった。
「私が助けられる。方法ならある」
折られた右手の痛みをものともせず、冷静な声が響く。
「責任を押し付けることしかできなくて、全部を魔族のせいにするだけの役立たずが、何をできる?」
息が詰まり、頭を地面に押しつけられる状況など、とうに慣れきっていた。
「あいつを生かしておきたいなら、さっさと放せ」
恐怖と憎悪の波が、その場にいる全員を呑み込む。剣先も視線も、すべて彼女へと向けられた。
だから、暖かい懐の中に抱きしめられている少年の、か細く取るに足らない言葉は、誰の耳にも届かなかった。
「……放せ……」
俺の兄ちゃんがこんなに可愛いわけがない 完




