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傭兵聖女  作者: 崎ノ夜
145/159

29-03

 俺の兄ちゃんがこんなに可愛いわけがない 03


 やっと半龍少年が静まったのを見て、少女は太もものベルトに手を伸ばした。……向こう側へ手を回し、……ズボンのポケットを探る。


 そして、湖の向こうにある洞窟へと声を投げかけた。声は決して大きくなかったが、洞窟内に反響し、何度も同じ言葉を繰り返した。


「悪いけど、もう一本の刀、探してくれない?」


「これか?」


 反響の余韻がまだ残る中、いつも通り冷たい表情をしているアキレスが、すでに双刃の片方を手にして少女の背後に立っていた。


 外の騒がしさが収まった頃、様子を見に洞窟から出てきた彼は、たまたまその刀を拾ったのだった。だが、その軽さはまるで羽のようで、彼を少し驚かせた。


「?!」いつの間にか背後にいたアキレスに、少女は小さく声を上げて振り返る。「……あ、ああ。どうも……」


 彼女は刀を受け取ると、柄を開けた。中空の柄の中から飴玉のような赤い粒を一つ取り出す。


 そして、湖の中に沈みかけていた半龍少年の顔を水面から引き上げ、その口元に粒を押し込んだ。


「……殺してないよ」


 何故か、少女はそう弁解するように話した。


「こいつ、龍族にそそのかされて魔王暗殺の役を押し付けられてたみたいんで、私に返り討ちにされたから、根に持ってんだな」


 湖から半龍少年を引きずり上げながら、少女は続ける。


「あー、ちなみにだけど……こいつ、聖魔法の魔因子を探して、王宮の中まで潜り込んでた」少女は何でもないようにそう言った。半龍少年の姿は、もうコルフのものではなかった。だから、彼女は、コルフが“食われた”ことを伏せたままだった。


「フィデルテイに近づくために?」アキレスは淡々と尋ねた。


「……たまたまだよ」少女は短く答える。その声には、感情の色が一切なかった。


 この半龍は、たまたま聖魔法の魔因子を持つフィデルテイを見つけただけ。だから、彼の双子――コルフを食った。


「......」


 洞窟の中は、しんと静まり返っていた。風が細く鳴り、天井のどこかから水滴がぽたりと落ちる。時折、転がった石が小さく音を立てるほか、何も動かない。


 だからこそ、その声は異様に響いた。


「あああああっ! なんなんだよ、クソが!!」少女は頭を抱え、しゃがみ込みながら小さく唸った。怒りというより、やり場のない苛立ちを吐き出すように。


 そして、何かを見開けたかのようにパッと顔を上げる。


「オルデイネのくそっ............魔王がなぁ!こいつに用がある。多分すぐこいつを回収しに来るだろうから、殺すなら今がチャンスだ!ってか、先のもチャンスだろうが!逃すなよ!」


 彼女はどうしてそんなことを思った?どうしてそれを口に出した?わざわざ自分に不利な状況を作るなんて――思いもしなかった言葉に、彼女自身も困惑した。


 しかし、この場面は、本当に、どうしようもなく、居たたまれない!


 怒りをぶつけてくる人には、殴り返す。

 憎しみで襲ってくる人には、蹴り返す。

 軽蔑の態度で嫌味を仕掛けてくる人には、挑発で返す。


 繋がりのない人には、そのまま明白な境界線を引く。


 なら、今は?


 彼女は、彼の家族を殺した。

 なのに、彼からは何も感じなかった。


 じゃあ、そんな場合、彼女はどう反応すればいいのか?


「何のチャンスだ?」


 アキレスの問いかけに、少女はピクッと反応し、なぜか自分でもよく分からない理由でムカッとした。


 少女が一歩、歩み寄った。わずかに距離を詰めたその直後、低く、冷たい声で呟く。


「……血の痕って、しばらく服に染みついて、なかなか落とせないのよね。三日ぐらい洗っても落ちなかった」


 その言葉に、アキレスの背筋がぴくりと震えた。


「ワイナリーの屋敷だったな。記憶にあったような、ないような?……ああ!そう言えば、龍に皆殺しにされたな?私が連れてきたのよ。ごめんな。家族が殺されたか?まあー、悪く思うなよ?こっちだって殺されたくないからね」


 その瞬間、アキレスの中で何かが切れた。


 三ヶ月、誰にも見せなかった感情。声にもせず、涙ひとつ見せず、ただ蓋をしていたものが――爆ぜた。


 やっとだ。少女はそう思った。


「失せろ!!」


 怒声とともに、アキレスは腕を振り上げて、少女を押し離した。


 だが、その拳は、あっさりと彼女の手のひらに受け止められた。


 少女は無表情のまま、淡々と彼を見つめる。感情の揺れひとつない瞳が、すべてを受け止めていた。まるで殴られることを、当然と受け入れているかのように。


 アキレスの呼吸が乱れ、肩が大きく上下する。拳は震え、怒りの行き場を見失っていた。


「おいおい、冷静さはどこ行ったの?」少女は肩をすくめ、他人事のように言った。足元に置かれた刀を軽く蹴り上げ、柄がアキレスに向かうよう差し出す。


 その動きはまるで、「もっとやれ」と唆しているかのようだった。


 アキレスは沈黙したまま、歯を食いしばる。拳は震え、目に宿った怒りはまだ消えていない。


 しかし、なぜか、その怒りは自分に向けたのではないと彼女はそう感じた。


「こういう時に冷静でいるほうが無理だよね。でも、まだ足りないだろう?」


 少女は首をかしげ、淡々と続ける。その視線は、アキレスの目を外さず、動揺を探っていた。


「……お前は、なんなんだ!」


 怒声が空気を裂き、アキレスは半歩踏み出す。身を低くし、まるで次の瞬間に殴りかかるような構えだった。


「私は、お前が生きていようが死のうが興味ない。兄弟とか家族とかがどうなろうと、関心なんて一ミリもない」


 そう言って少女はさらに一歩近づいた。刀を抜く気がないことを察したのか、わざと顔を寄せ、冷たい声音で囁く。


「だから、『なんなんだ?』だっけ?……お前らの台本通りの悪犬だ」


 その声音はあまりにも冷たく、抑揚すらなかった。


 そう吐き捨て、彼の目前で立ち止まる。身構えもせず、両腕をだらりと下ろしたまま、アキレスの手が襟元を掴むのをただ待っていた。


 その無防備な姿勢は、「殴れ」と言わんばかりだった。


「……なんのつもりだ?」アキレスは眉をひそめ、戸惑いながらも問う。


「殺させてあげるって言ってんの。今がチャンスだろう?」少女は囁くように答え、額をそっと彼の額に当てた。


 その態度が、アキレスの怒りに火を注ぐ。


「みんながみんな、そうだと思うな」彼は少女の額をぶつかり、襟を掴んだまま唇を噛みしめて呟いた。


 その言葉で何かが、もう一度壊れた。


「……残念、時間切れ」


 少女は口元から滲む血を舐め、アキレスを殴り返した。


 その直後、空気が変わった。


 魔王が来た。


 男は腕を上げ、手のひらを上に向け、人差し指をわずかに曲げた。


 その瞬間、岩の上で昏睡していた半龍の少年が、人形のように立ち上がり、男の指先から伸びる見えない糸に操られるようにして、魔王のもとへ歩き出す。


 魔王はそれを見て、傲然と笑みを浮かべた。何もかもが思い通りに進んでいるという笑みだ。そして、ようやく二人に視線を落とす。


「クィヴェンよ、源ノ池に近づくこと叶わぬぞ」


「言われるまでもない」


 あの池の、直感でわかるほどの忌まわしさと不気味さを前に、彼女が足を踏み入れるはずもなかった。


「相変わらず、愛嬌というものを知らぬ小娘よな」魔王は彼女の口の悪さを気にも留めず、彼女の後ろにいる銀色の少年に目を向ける。


「いかに?銀色の小僧よ。同じ人族として、そやつを人と見なすか?」嘲笑を含ませながらそう言い、魔王は自らの腕に歩み寄った半龍の少年を抱き上げた。


 水面から立ち上る青白い光が、彼の暗紅色の角を照らし、この薄暗い洞窟にさらに不気味な色を加える。魔王は二人を見下ろし、ふっと、何かを気づいたように面白がる笑みを浮かべた。


「ほう、こいつに拳を叩き込んだか……面白い」魔王は少女の顎をつかみ、殴られた頬を自分の方へ向けさせながら、アキレスに声をかける。


「命乞いよりも、喧嘩の才があるらしいな。どうだ?余の力を借りてみぬか、小僧」金色の瞳が異様な光を帯び、アキレスを射抜く。


「その手を離せ」アキレスは魔王を前にしても、変わらぬ冷たい表情で言った。


「ふっ……ふはははは!」魔王は言われた通りに手を放し、その笑い声が洞窟にこだまする。笑い終えると、満足げに涙を拭い、人差し指を上に掲げた。「……本気で申すか。ならば、汝が討つべき敵は、天の上におる」


 彼の指す先は、精霊のひとみだ。


「おい。ついでにこいつを外に連れ出せ」魔王が背を向けると、少女は手を伸ばし、その金色の長髪を掴んだ。


 魔王は振り返らずに答える。「うむ。そのことならば構わぬ。外では人族の屠る気配が近づいておる。案ずるな、余は契りを違えぬ。ゆえに汝もまた、誓いを破るでないぞ」


 少女は肩をすくめ、気だるげに吐き捨てた。「はあー、まじかよ」


「再び閉ざされた龍鱗を開くには、人族の力では七日ほどかかろう」


「アホか。人間のガキが七日も飲まず食わずじゃ死ぬだろ」少女は盛大に白目をむいた。


 魔王は冷笑を浮かべた。「血を流しすぎて痴れ者になったか?水ならばあろう。では、それまでに聖魔殿へ帰る術を考えるがよい」


「『帰る』?」豚が空を飛んでいるだと聞かされるより呆れた蔑みの表情で彼女は話した。「『向かう』、だろうが」


 魔王は愉快そうに目を細めた。「愛嬌なき哀れな小娘よ。汝が契りを破られそうな時、余は必ず“助けに赴く”ことを忘れるでない」


 その言葉を残し、魔王は黒い輪の中に姿を消した。


「一生いらねーわ!」少女は消えた場所に向かって中指を立てる。


「ならば、首の血を速やかに止めるがよいぞ」消えゆく黒い粒子の中から、魔王の手が一度だけ揺れ、そのまま完全に消えた。


 洞窟は再び静寂を取り戻す。


 少女は龍の爪に裂かれた衣の端を裂き取り、首に巻いて血を止めた。その間も黙ってアキレスの顔色を窺う。


「ほら見ろよ?オルディネのカス野郎、口を開けば精霊は敵だって言ってるくせに、魔法の副産物はちゃっかり気持ちよく使ってやがるんじゃねぇか」


 適当に話しをかけてきたが、アキレスは彼女の言葉に反応がなかった。彼の目は赤く血走り、魔王が消えた場所を見据えている。


「はあー、めんどくさっ」少女は心の中でため息をついた。


 彼はまた悲しみを抑えている。それは“受け入れられない”証だ。理解してもなお受け入れられず、忘れようとして感情を抑える――その根底には“まだより良い解決方法がある”という希望がある。


 少女は口を開いた。「龍は人を喰う。猫が鼠を遊ぶように、食う」


「............」


 彼女はもう一度、アキレスに諦めさせるように告げる。「死んだら終わり」


 しかし、アキレスの反応はクレインの時とは違った。彼は少女を睨み、背を向けて歩き出す。


「おいおい、待てって」少女は声をかけ、二本の小刀を持ち上げた。「どっちがいい?」


 彼は無言で歩き続ける。


「別に仲良くしたいわけじゃない。ただ、今は話を聞いたほうが損はないぞ」


 その言葉に、アキレスは一瞬だけ足を止めた。


「ほら、貸してやる」少女は一本の刀を放り投げ、二人の間に置いた。「好きに使え。復讐するならいつでもどうぞ」


 そう言い残し、彼女は反対方向に向かい、残った刀で龍鱗と骨の壁を叩いて出口を探す。


 だが、向こう側からも叩く音が響き、少女は再び嘆息した。


 結局、二人ともすぐに諦めた。


「やめだ!やめ!ビクともしねー」彼女は大の字で横になり、龍骨に映る水の波を見ながら、状況を整理する。「涼しい場所でも四日程度で意識障害や臓器不全になる。でも、龍鱗は破れないし、龍骨も折れない。水はあっても飲めない水で、食べ物もない」


 アキレスは刀を持って、彼女の向こうに座った。


「……お前、いっそ殺しにかかったらスッキリするわ!その表情はイライラさせる。ムカつくなら怒鳴ればいい!悲しむなら泣けばいい!復讐なり八つ当たりなり、どうしたっていいから!そうやって我慢してる顔はな……マジでムカつくんだよ!」


 彼女は彼のほうを見ず、地面を叩きながらそう吐き出した。


「……今更?」アキレスは静かに口を開いた。「もう亡くなったのに?俺が何をできるというのか?」


 彼は刀を地面に置き、話を続けた。「俺は君に勝てるほど強くないし、龍を殺せるほど強くないし、亡くなった家族を生き返らせる術もない。……今更、どうすればいいと言うのか?」


「へえ〜、分かるじゃん」少女は座り直して、彼の頬を軽く掴んだ。「だから、現実として受け入れるんだよ」


 アキレスは彼女の手首を掴み、震える声で言い返した。「言うほど簡単じゃない」


「なんで?」返ってきたのは、すごく単純な質問だった。「正しく現実を理解し、それを受け入れる。そっちのほうが楽だろう?」


「それはただ、諦めただけだろう」彼は少女の手を解いた。


 その答えを聞いて、少女は目を見開いた。本当に初めてそれに気づいたような反応だった。


「殺されたくないからだよ」


 彼女は壁に背を寄せて座った。二人の間に置かれた刀は、まるで二つの世界を分かつ境界線のようだ。


「我慢はいずれ限界がくる。その時、大半の奴は自殺する。でも、私から見れば奴らは“殺された”んだ」


 少女は平然とした口調で、何かを数えるように指を折りながら話す。


「痛みを耐えられなくて自殺した。殺すことを耐えられなくて自殺した。体を触られるのを耐えられなくて自殺した。目が見えない恐怖を耐えられなくて自殺した。檻の中にいるのを耐えられなくて自殺した」


 やがて、数えていた手が拳になった。


「それと、別に諦めろとは言ってない」彼女は拳を差し出し、彼に向けた。「お前の場合は、『その人たちが亡くなった』が、お前自身は何のダメージもない。目は見えるし、耳も聞こえる。手足も動くし、内臓も健全だ。なら簡単だ」


「……何が?」アキレスは眉をひそめて、ますます少女の言いたいことが分からなくなってきた。


「楽になれる方法を探せばいい。もう我慢しなくて済むように、決着をつけろ!その後の自殺こそ、本当の自殺だ」


「…………話がめちゃくちゃだ」


「あー、しゃべらないと寝ちまうからな」




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