27-02
おいおい、チェスのルールで囲碁やろうってか? 02
刹那、神壇の下に集まっていた群衆の中から、どよめきと悲鳴が湧き上がった。
司祭がピアチェを襲ったという衝撃からだけではない。
民衆の中には、かつて神裔による“魂を呼び返す”儀式を受けた“再生者”たちもいたからだ。
まるで連鎖反応。
神官たちが短剣を振り上げた瞬間、再生者たちも一斉に懐から魔石を取り出した。
それは炎の魔法が刻まれた魔石だ。一つや二つだけでは、料理を作る程度の火ができる魔石だ。大した威力がない。しかし、それが百や二百の場合ならどうだ?
今にも爆ぜようとしていた魔石は、
『魔素アイテム、始動』
と、このくらい短縮な言葉を唱え終えば、ここは業火に包まれる。
次の瞬間――。
「……凍った?」
轟音が鳴るはずだった空間に、静寂が落ちた。
すべての魔石が、凍りついた氷塊となっていた。
その間隙を逃さず、群衆に紛れていた第三騎士団の騎士たちが動きだして、再生者たちを迅速に制圧し、観礼者たちを混乱させることなく冷静に誘導し、場を収めた。
そして、落ち着いて見れば、神壇にいる司祭が持っている短剣がピアチェに届く前に使徒たちに囲まれ、制圧された。
まるで予め綿密に計画された防災訓練のように、一切の混乱もなく、迅速かつ完璧に。
あるいは、こう言うべきかもしれない。
「歴史に記されるはずの悲劇は、始まる前に終わらせた」と。
そのことを告ぐかのように、透き通った声が旋律を紡ぐ。
歌声が風に乗って広場を包み、教会の尖塔を伝い、空へと昇っていった。
それは言葉ではなかった。意味を超えた旋律。空気そのものが震えているような、そんな声だった。
歌に載せて、誰かが神聖な階段を登り始めた。
黒くて、爽やかな長い髪を風に吹かせ、彼女は純白に赤刺繍を施した礼装を纏い、凛とした足幅で、ハイヒールの音を響かせる。
聖女-東雲薫が今、神裔の代わりに神壇で立った。
歌声と共にあった聖女の背中を見つめ、小さな騒ぎは一瞬で鎮まる。先まで色んな感情に支配されていた群衆は再び目を伏せ、頭を垂れた。
静まり返った大聖堂の周囲。誰もが息を呑む中、一筋の旋律だけが天へと昇っていく。
その始まりは、囁きのようにか細く、だが確かな芯を持って胸の奥に語りかけてくる音だった。澄んでいる。それは水でも風でもない。もっと深く、人の心の静けさの源に触れる音。
白んだ唇からこぼれるその旋律は、言葉を持たずとも意味を伝える。孤独をなだめ、悲しみを抱きしめ、騒がしい心にそっと手を添える。誰かが、理由もなく涙を流した。ただその声に触れただけで、張り詰めていた感情が静かにほどけていったのだ。
高く澄んだ音は天蓋に反響し、空から光が降ってくるように感じられた。
低く穏やかな音は地の底に届くような温もりを帯び、聞く者の足元を支えてくれる。
声は決して大きくない。ただ、その美しさゆえに、誰も言葉を挟むことができなかった。透き通った歌声は、救いであり、赦しであり、まるで“帰る場所”そのもののようだった。
それは、「女神の安らかな眠りを祈る」歌。
しかし、歌う者はその意味を知らない。むしろ、そのテーマを見て吐き気がするほど「くだらない」と思った。
ただ、聴くすべての者の胸に染みわたり、祈りとは何かを思い出させてくれる。群衆は、静かに、その歌に耳を傾けていた。
換気する隙間に、海唯は額から流れ落ちた塩っぱい汗を舐めた。熱で白んだ唇は熱い吐息を吐き出しながらも、誰もが心酔する旋律を歌いつづける。
汗はぼたぼたと楽譜の紙に落ちて、イラついた表情をあらわにする。
祈りの歌を奏でる者は今、高熱を耐えながらも、真夏の昼時間で神壇の中に隠れ、決められていた悲劇を強引に閉幕させたことに、歌に沈まれている民衆は知らない。
そして、フィナーレの音を下ろした。
足音が止まったのを聞こえて、海唯はそう呟いた。「お手並み拝見だ。聖女さま」
東雲は深呼吸してから、言葉を紡ぐ。
静まり返る大聖堂の中心。神悦祭の余韻がまだ空に残るなか、東雲は、ゆっくりと神壇に横たわる三人の神官を見て、彼女たちの頬を撫でた。
その手には一本の小さな銀鈴が握られていた。誰もが彼女の口から何が語られるかを待っていた。
そこには、ピアチェ・ジュディアンもいた。手を胸に置き、恐るような面持ちで東雲を見つめている。
そして、東雲は語り始めた。
「ここに横たわるのは、神に召された方々――そう信じられてきました。けれど、私は今日、この場に立ち、まず最初に、真実をお話しします」
空気がぴんと張り詰めた。
「彼女たちは……死んでいません。最初から、元気に生きています」
ざわめきが起きかけたその瞬間、東雲は銀鈴を一度だけ鳴らした。澄んだ音が静けさを取り戻させる。
「起きてください。これ以上、神の示す道を踏み外さないで」
そして、三名の神官は目を開いて、まるで詫びるように膝をつけて、両手を合わせた。
東雲は優しい声で、民衆に話しを続けた。
「驚かないでください。それは、誰かを責めるための言葉ではありません。嘘があったとしても、それは“希望”を齎そうとする手段だったのです。
信仰が嘘を許すのではありません。ただ、人が絶望に沈まないよう、光に似せたものを差し出すことが、時に必要だったのだと……私は、そう思います」
そして、東雲は神壇の傍に立つピアチェの手を、静かに取った。
「この手は、多くの人の悲しみに触れてきたのでしょう。苦しむ者に寄り添い、癒そうとした。たとえそれが本当の奇跡でなかったとしても、その優しさは、決して偽りではありません」
ピアチェの目が揺れる。けれど東雲はそれ以上、問い詰めることはしなかった。
「私は――聖女として、ただひとつ、神に祈ります。亡くなった人たちは、どうか、神に受け入れられて、安らかに眠らせてください。
その眠りは、終わりではなく、癒しです。悲しみを断ち切るためではなく、愛した人を静かに送り出すために、神がくれた時間です。
蘇らせることより、今を生きる私たちが彼らを思い、祈り、許し、手を離す勇気を持つことのほうが、ずっと難しい。でも、それが“信じる”ということだと、私は思っています」
神壇の下、聖職者たちは静かに膝をつき、誰ともなく祈りの姿勢をとった。
東雲は最後に、ピアチェの手をそっと離し、もう一度、銀鈴を鳴らした。
「どうか、安らかな眠りを。――すべての魂に、ミネルディア神の祝福があらんことを」
鐘の音が静かに響き、誰も声を発さぬまま、聖堂は祈りに包まれていった。
真っ白な光の粒が空気中を漂う。熱い空気の中で、その光はひゃんやり気持ち良く感じる。その光が人々の間で舞っていて、傷や痛みを持ち去る。
膝のかすり傷が消えた。風邪で痛めた喉が痛くなくなった。指のささくれも綺麗に戻された。
たっだ一人の少女を除いて。
「ガァっ?!ゴホッ……何が『聖域転換』だァ!……」
東雲が演説している間、海唯は聖魔法を唱えていた。それは、聖魔法の結界。聖域の中にいるすべての魔素を取り込み、強引に聖魔法に使えられる魔力に変換させる魔法。
それも“今の”海唯が唯一わかる魔法で、この世界で彼女の知り合い――
オルデイネ・ウ・ノウフォが教えた唯一の“力”だった。
しかし、それは本来、人の身が触れてはならない領域。
自然の理をも、精霊の戒律をも踏みにじる、禁忌の力。
術が展開された刹那、空気が一瞬沈黙し、次いで異常な熱が海唯の体内を駆け抜けた。まるで体の芯を炎で灼かれるような感覚。臓腑が捩れ、骨の奥で悲鳴が響く。
喉の奥から突き上げる痛みは、もう吐き気などではなかった。ごぼりと重く湿った音と共に、鮮やかな赤が唇から溢れ出す。
熱い鮮血が顎を伝い、神壇の中を汚した。
同時に、耳の奥を鋭い金属音のようなノイズが貫いた。
それは“音”ではない――“雑音”だった。
理解不能な言語、崩れた叫び、精霊たちの警告のような嘆き声。
それらが海唯の鼓膜をすり抜け、直接、脳にねじ込まれる。
「――っ……ッ!!」
両手で耳を塞いでも無駄だった。頭蓋が割れそうなほどの激痛。世界が揺れ、視界が白く弾ける。血が耳から零れ落ちる。
呼吸が乱れ、膝が折れる。それでも止まらない。術の代償が、容赦なく彼女の肉体を蝕んでいく。
それは明らかに、“使ってはならない力”の報いだった。
しかし、それより遥かに、彼女をムカつかせる理由があった。
簡潔に説明するなら、いつも古風の話し方をしている奴がわざとらしくギャルの口調で『ダイヤモンドも人間も炭素でできてるんでしょ?じゃあ、ダイヤを人間に改造する感じで頑張って〜♪』と言われることだ。
「……オルデイネのクソ野郎!次会ったら絶対殺す……」
意識を手放した。
ここは、薬屋にしては匂いがなさすぎた。
薬草の乾いた青臭さもなければ、煎じた苦味の痕跡もない。
棚には整然と瓶が並ぶが、そのほとんどは空で、中身があったような痕跡すら残っていない。調合の気配も、薬の気配も、何一つなかった。
屋敷にしては家具が少なすぎた。
居住感も、生活の痕跡もない。空気すら澄みすぎていて、隅の隅まで掃除が行き届く。
そんな空虚な空間に、違和感のない存在として立っているのは、白髪の老人だった。
執事服をきっちりと着こなし、無駄のない所作で背筋を伸ばして立つその老人は、海唯を睨むでもなく、警戒するでもなく、まるで旧知の友人でも迎え入れるような笑みを浮かべた。
「はて、あなた様はどなたでしょうか?」
問いかけは柔らかく、声に剣も棘もない。
だが、海唯は警戒を解かなかった。武器を持っていない今、動きすら最小限で制限しなければならない。
だから答えずに言ったのは、ただ一言だけ。
「そいつが起きたら、悪かったって伝えてくれ」
それだけを残して、海唯は静かに屋敷を後にした。
だが、ドアの先にいたのは想定外の人物だった。
何か硬いものにぶつかったと思った瞬間、彼女は顔を上げた。
そこに立っているのはアキレスだった。
お互いに、明らかに予想外だった。
だが、それより先に執事が口を開く。
「お帰りなさいませ、若旦那さま」
海唯は条件反射的に身構えた。
今の自分にはこの男を“味方”だと判断する記憶も手段もない。
なら、選択肢は一つしかない。
「……カスが」
小さく呟いた悪態と共に、アキレスの視線が執事に逸れた一瞬を見逃さず、海唯は身を翻して逃げ出した。
追撃は予測済みだった。
しかし、自分の動きが読まれたかのように、すぐに反応して追ってくるのは想定外だった。
夜の空は雲に覆われ、月は見えず、静寂の中に風の音だけが細く流れている。
屋根の上を走る一筋の影。彼女の身体はいつも通りに動く。だが、すぐ背後には銀の影が迫っていた。
追い詰められた彼女は、手近に落ちていた割れ瓶を拾い、振り向きざま、相手の喉元に狙いを定める。
だがアキレスはそれすらも読んでいた。わずかに身体を捻り、攻撃を肩に受け流すと、そのまま海唯を組み伏せ、壁に押した。
腕を背に取られ、動きを封じられる。抵抗は試みたが、力の差は明らかだった。
悔しさがにじむ。
歯を食いしばり、逃げる隙を探る。
そのとき、アキレスの声が耳元で落ちた。
「俺が、匿ってやる」
一瞬、自分の耳がどうかしているのかと思った。
ただの都合のいい聞き間違いか?
いいえ、その低くて、わりと優しい声は確実にそう言った。先の追撃戦で荒くしている息ですら、わずか、首の後ろにかかっている。




