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傭兵聖女  作者: 崎ノ夜
135/159

27-02

 おいおい、チェスのルールで囲碁やろうってか? 02


 刹那、神壇の下に集まっていた群衆の中から、どよめきと悲鳴が湧き上がった。


 司祭がピアチェを襲ったという衝撃からだけではない。


 民衆の中には、かつて神裔ピアチェによる“魂を呼び返す”儀式を受けた“再生者”たちもいたからだ。


 まるで連鎖反応。


 神官たちが短剣を振り上げた瞬間、再生者たちも一斉に懐から魔石を取り出した。


 それは炎の魔法が刻まれた魔石だ。一つや二つだけでは、料理を作る程度の火ができる魔石だ。大した威力がない。しかし、それが百や二百の場合ならどうだ?


 今にも爆ぜようとしていた魔石は、


『魔素アイテム、始動』


 と、このくらい短縮な言葉を唱え終えば、ここは業火に包まれる。


 次の瞬間――。


「……凍った?」


 轟音が鳴るはずだった空間に、静寂が落ちた。

 すべての魔石が、凍りついた氷塊となっていた。


 その間隙を逃さず、群衆に紛れていた第三騎士団の騎士たちが動きだして、再生者たちを迅速に制圧し、観礼者たちを混乱させることなく冷静に誘導し、場を収めた。


 そして、落ち着いて見れば、神壇にいる司祭が持っている短剣がピアチェに届く前に使徒アポーストラたちに囲まれ、制圧された。


 まるで予め綿密に計画された防災訓練のように、一切の混乱もなく、迅速かつ完璧に。


 あるいは、こう言うべきかもしれない。


「歴史に記されるはずの悲劇は、始まる前に終わらせた」と。


 そのことを告ぐかのように、透き通った声が旋律を紡ぐ。


 歌声が風に乗って広場を包み、教会の尖塔を伝い、空へと昇っていった。


 それは言葉ではなかった。意味を超えた旋律。空気そのものが震えているような、そんな声だった。


 歌に載せて、誰かが神聖な階段を登り始めた。


 黒くて、爽やかな長い髪を風に吹かせ、彼女は純白に赤刺繍を施した礼装を纏い、凛とした足幅で、ハイヒールの音を響かせる。


 聖女-東雲薫が今、神裔の代わりに神壇で立った。


 歌声と共にあった聖女の背中を見つめ、小さな騒ぎは一瞬で鎮まる。先まで色んな感情に支配されていた群衆は再び目を伏せ、頭を垂れた。


 静まり返った大聖堂の周囲。誰もが息を呑む中、一筋の旋律だけが天へと昇っていく。


 その始まりは、囁きのようにか細く、だが確かな芯を持って胸の奥に語りかけてくる音だった。澄んでいる。それは水でも風でもない。もっと深く、人の心の静けさの源に触れる音。


 白んだ唇からこぼれるその旋律は、言葉を持たずとも意味を伝える。孤独をなだめ、悲しみを抱きしめ、騒がしい心にそっと手を添える。誰かが、理由もなく涙を流した。ただその声に触れただけで、張り詰めていた感情が静かにほどけていったのだ。


 高く澄んだ音は天蓋に反響し、空から光が降ってくるように感じられた。

 低く穏やかな音は地の底に届くような温もりを帯び、聞く者の足元を支えてくれる。


 声は決して大きくない。ただ、その美しさゆえに、誰も言葉を挟むことができなかった。透き通った歌声は、救いであり、赦しであり、まるで“帰る場所”そのもののようだった。


 それは、「女神の安らかな眠りを祈る」歌。


 しかし、歌う者はその意味を知らない。むしろ、そのテーマを見て吐き気がするほど「くだらない」と思った。


 ただ、聴くすべての者の胸に染みわたり、祈りとは何かを思い出させてくれる。群衆は、静かに、その歌に耳を傾けていた。


 換気する隙間に、海唯は額から流れ落ちた塩っぱい汗を舐めた。熱で白んだ唇は熱い吐息を吐き出しながらも、誰もが心酔する旋律を歌いつづける。


 汗はぼたぼたと楽譜の紙に落ちて、イラついた表情をあらわにする。


 祈りの歌を奏でる者は今、高熱を耐えながらも、真夏の昼時間で神壇の中に隠れ、決められていた悲劇を強引に閉幕させたことに、歌に沈まれている民衆は知らない。


 そして、フィナーレの音を下ろした。


 足音が止まったのを聞こえて、海唯はそう呟いた。「お手並み拝見だ。聖女さま」


 東雲は深呼吸してから、言葉を紡ぐ。


 静まり返る大聖堂の中心。神悦祭の余韻がまだ空に残るなか、東雲は、ゆっくりと神壇に横たわる三人の神官を見て、彼女たちの頬を撫でた。


 その手には一本の小さな銀鈴が握られていた。誰もが彼女の口から何が語られるかを待っていた。


 そこには、ピアチェ・ジュディアンもいた。手を胸に置き、恐るような面持ちで東雲を見つめている。


 そして、東雲は語り始めた。


「ここに横たわるのは、神に召された方々――そう信じられてきました。けれど、私は今日、この場に立ち、まず最初に、真実をお話しします」


 空気がぴんと張り詰めた。


「彼女たちは……死んでいません。最初から、元気に生きています」


 ざわめきが起きかけたその瞬間、東雲は銀鈴を一度だけ鳴らした。澄んだ音が静けさを取り戻させる。


「起きてください。これ以上、神の示す道を踏み外さないで」


 そして、三名の神官は目を開いて、まるで詫びるように膝をつけて、両手を合わせた。


 東雲は優しい声で、民衆に話しを続けた。


「驚かないでください。それは、誰かを責めるための言葉ではありません。嘘があったとしても、それは“希望”を齎そうとする手段だったのです。


 信仰が嘘を許すのではありません。ただ、人が絶望に沈まないよう、光に似せたものを差し出すことが、時に必要だったのだと……私は、そう思います」


 そして、東雲は神壇の傍に立つピアチェの手を、静かに取った。


「この手は、多くの人の悲しみに触れてきたのでしょう。苦しむ者に寄り添い、癒そうとした。たとえそれが本当の奇跡でなかったとしても、その優しさは、決して偽りではありません」


 ピアチェの目が揺れる。けれど東雲はそれ以上、問い詰めることはしなかった。


「私は――聖女として、ただひとつ、神に祈ります。亡くなった人たちは、どうか、神に受け入れられて、安らかに眠らせてください。


 その眠りは、終わりではなく、癒しです。悲しみを断ち切るためではなく、愛した人を静かに送り出すために、神がくれた時間です。


 蘇らせることより、今を生きる私たちが彼らを思い、祈り、許し、手を離す勇気を持つことのほうが、ずっと難しい。でも、それが“信じる”ということだと、私は思っています」


 神壇の下、聖職者たちは静かに膝をつき、誰ともなく祈りの姿勢をとった。


 東雲は最後に、ピアチェの手をそっと離し、もう一度、銀鈴を鳴らした。


「どうか、安らかな眠りを。――すべての魂に、ミネルディア神の祝福があらんことを」


 鐘の音が静かに響き、誰も声を発さぬまま、聖堂は祈りに包まれていった。


 真っ白な光の粒が空気中を漂う。熱い空気の中で、その光はひゃんやり気持ち良く感じる。その光が人々の間で舞っていて、傷や痛みを持ち去る。


 膝のかすり傷が消えた。風邪で痛めた喉が痛くなくなった。指のささくれも綺麗に戻された。


 たっだ一人の少女を除いて。


「ガァっ?!ゴホッ……何が『聖域転換』だァ!……」


 東雲が演説している間、海唯は聖魔法を唱えていた。それは、聖魔法の結界。聖域の中にいるすべての魔素を取り込み、強引に聖魔法に使えられる魔力に変換させる魔法。


 それも“今の”海唯が唯一わかる魔法で、この世界で彼女の知り合い――

 オルデイネ・ウ・ノウフォが教えた唯一の“力”だった。


 しかし、それは本来、人の身が触れてはならない領域。

 自然の理をも、精霊の戒律をも踏みにじる、禁忌の力。


 術が展開された刹那、空気が一瞬沈黙し、次いで異常な熱が海唯の体内を駆け抜けた。まるで体の芯を炎で灼かれるような感覚。臓腑が捩れ、骨の奥で悲鳴が響く。


 喉の奥から突き上げる痛みは、もう吐き気などではなかった。ごぼりと重く湿った音と共に、鮮やかな赤が唇から溢れ出す。

 熱い鮮血が顎を伝い、神壇の中を汚した。


 同時に、耳の奥を鋭い金属音のようなノイズが貫いた。

 それは“音”ではない――“雑音”だった。


 理解不能な言語、崩れた叫び、精霊たちの警告のような嘆き声。

 それらが海唯の鼓膜をすり抜け、直接、脳にねじ込まれる。


「――っ……ッ!!」


 両手で耳を塞いでも無駄だった。頭蓋が割れそうなほどの激痛。世界が揺れ、視界が白く弾ける。血が耳から零れ落ちる。


 呼吸が乱れ、膝が折れる。それでも止まらない。術の代償が、容赦なく彼女の肉体を蝕んでいく。


 それは明らかに、“使ってはならない力”の報いだった。


 しかし、それより遥かに、彼女をムカつかせる理由があった。


 簡潔に説明するなら、いつも古風の話し方をしている奴がわざとらしくギャルの口調で『ダイヤモンドも人間も炭素でできてるんでしょ?じゃあ、ダイヤを人間に改造する感じで頑張って〜♪』と言われることだ。


「……オルデイネのクソ野郎!次会ったら絶対殺す……」


 意識を手放した。






 ここは、薬屋にしては匂いがなさすぎた。

 薬草の乾いた青臭さもなければ、煎じた苦味の痕跡もない。


 棚には整然と瓶が並ぶが、そのほとんどは空で、中身があったような痕跡すら残っていない。調合の気配も、薬の気配も、何一つなかった。


 屋敷にしては家具が少なすぎた。

 居住感も、生活の痕跡もない。空気すら澄みすぎていて、隅の隅まで掃除が行き届く。


 そんな空虚な空間に、違和感のない存在として立っているのは、白髪の老人だった。


 執事服をきっちりと着こなし、無駄のない所作で背筋を伸ばして立つその老人は、海唯を睨むでもなく、警戒するでもなく、まるで旧知の友人でも迎え入れるような笑みを浮かべた。


「はて、あなた様はどなたでしょうか?」


 問いかけは柔らかく、声に剣も棘もない。

 だが、海唯は警戒を解かなかった。武器を持っていない今、動きすら最小限で制限しなければならない。


 だから答えずに言ったのは、ただ一言だけ。


「そいつが起きたら、悪かったって伝えてくれ」


 それだけを残して、海唯は静かに屋敷を後にした。

 だが、ドアの先にいたのは想定外の人物だった。


 何か硬いものにぶつかったと思った瞬間、彼女は顔を上げた。

 そこに立っているのはアキレスだった。


 お互いに、明らかに予想外だった。

 だが、それより先に執事が口を開く。


「お帰りなさいませ、若旦那さま」


 海唯は条件反射的に身構えた。

 今の自分にはこの男を“味方”だと判断する記憶も手段もない。

 なら、選択肢は一つしかない。


「……カスが」


 小さく呟いた悪態と共に、アキレスの視線が執事に逸れた一瞬を見逃さず、海唯は身を翻して逃げ出した。


 追撃は予測済みだった。

 しかし、自分の動きが読まれたかのように、すぐに反応して追ってくるのは想定外だった。


 夜の空は雲に覆われ、月は見えず、静寂の中に風の音だけが細く流れている。

 屋根の上を走る一筋の影。彼女の身体はいつも通りに動く。だが、すぐ背後には銀の影が迫っていた。


 追い詰められた彼女は、手近に落ちていた割れ瓶を拾い、振り向きざま、相手の喉元に狙いを定める。

 だがアキレスはそれすらも読んでいた。わずかに身体を捻り、攻撃を肩に受け流すと、そのまま海唯を組み伏せ、壁に押した。


 腕を背に取られ、動きを封じられる。抵抗は試みたが、力の差は明らかだった。


 悔しさがにじむ。

 歯を食いしばり、逃げる隙を探る。


 そのとき、アキレスの声が耳元で落ちた。


「俺が、匿ってやる」


 一瞬、自分の耳がどうかしているのかと思った。


 ただの都合のいい聞き間違いか?


 いいえ、その低くて、わりと優しい声は確実にそう言った。先の追撃戦で荒くしている息ですら、わずか、首の後ろにかかっている。


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