第27シナリオ おいおい、チェスのルールで囲碁やろうってか? 01
第27シナリオ おいおい、チェスのルールで囲碁やろうってか? 01
夜風が川の湿気を帯びて、静かに街へと流れ込んでくる。
闇の中、長いローブの裾が風に揺れ、その足元に刻まれた刺青をあらわにした。
オリーブの枝は祈りを捧げる手のようにしなやかに広がり、枝先には緋色の炎が咲き誇る。
それは、教会直属の私兵「使徒」の印だった。
石畳の路地裏。月明かりが届かぬその場所に、三人の影が集まっていた。
ひとりの男が息を切らせて現れ、すぐに口を開いた。「……暗殺は、失敗しました」
沈黙が落ちる暇もなく、すぐに、別の男が嘆くように呻いた。「なんという悪運だ……。安息の死すら、女神さまに拒まれたとはな」
「やはり、あの少年は神裔さまに災いをもたらす者です」
若い使徒が声を荒げる。「今すぐにでも排除しなければ!」
だが、報告に来たの男がそれを戸惑った。「待てください。彼は聖女・東雲さまと契約を交わした者です。……それも、女神さまの意思なのでは?」
それを聞いた男がまた呻いて、鼻を鳴らした。「契約したのは聖女さまの優しさゆえ。女神さまの真意を我らの理で推し量るなど、不敬にも程がある」
二人の口論に割って入るように、若い使徒が口を開いた。「……ともかく、明日の神悦祭が最後の機会です。あの少年は、必ず神裔さまの前に現れる」
彼は重々しく言い放った。「神裔さまに危害を加える前に――殺せ」
静寂が降りる。やがて、報告に来た男がわずかにうつむいて答えた。「……分かりました。そう、伝えてきます」
神悦祭を翌日に控えたリニチオ区の空は、どこまでも静かだった。教会本部の塔にかかった女神の紋章が、風のない空気の中で微かに揺れている。
明日の祭典に備え、街の清掃は済まされ、衛兵たちは路地に立ち、道路を封鎖するような緊張が漂っていた。
ピアチェ・ジュディアンは、聖堂の奥にある花香炉の間で、瞼を閉じて祈っていた。
目の前には、薄布にくるまれた神官たちの亡骸が眠っている。しかし、ピアチェは彼女たちの名前さえも知らない。
彼女の役目は、ただ神悦祭でその神官たちの魂を呼び戻して、ただの噂話を真実にすることだけだ。
「え~?明日の神悦祭で“儀式”するの?」
めんどくさそうに言った彼女の声には、死者を甦すことにためらいも疑念もなかった。まるで、それが当然であるかのように。
「はい、王国の人々にも、神裔が齎した奇跡を見せることで、ミネルディア神への信仰を固められます」傍で控えているシスターはそう答えた。
「先週、公国でもしたよね?なんで毎日のように死者は出てくるかしら?」祈る姿勢を保ちながら、ピアチェはそう尋ねた。
「プーセル公国も、アデレード王国も、ミネルディア神への信仰が足りない愚者が多いので、彼らを救うのは神裔が女神さまに授けられたお勤めです」そう言いながら、シスターはゆっくりと清めの聖水をピアチェの肩から注いた。
「気の毒だわ。救って差し上げようじゃないか」
大使公邸の部屋に入りながらも、プリマベラは灯りをつけなかった。彼は窓際に座り、外の光だけが静かに本のページを照らしていた。
「思ったとおり、ここの使徒は暗殺に失敗したよ」ノックの返事がなかったため勝手に入ってきた男が、そう話しかける。
プリマベラは返事もせず、指先で次のページをめくった。
「実行した人が誤って騎士団の副長を刺したらしいが、なぜかあの黒獣がそいつを連れて逃げた。おそらく人質だな」
報告を聞いているのかどうか曖昧な態度のまま、プリマベラはさらにページを読み進める。
それでも男は構わず話を続けた。「その黒獣についての情報は、まったく炙り出せなかった。だが、一つだけ面白いものが見つかった」
男が差し出したのは、銀色のタグがついたネックレスだった。月明かりに反射したその光が、プリマベラの目を刺す。
「っち」彼は不機嫌そうに目をそらし、カーテンを閉めて部屋の明かりをつけた。そして、それを見て驚愕した。「……!? あの黒獣のか?」
タグに刻まれていた“模様”は、“あの方”がつけていたブレスレットにあるの模様と非常によく似ていたのだ。
『触るな』――“あの方”は確かにそう静かに警告した。その瞬間、プリマベラは「殺される」とすら思った。
「はい。タグの中央には刀傷で開いた穴がありますが、同一系統の“模様”だと考えられる」
「っふ……ふあははははっ、ははは!」プリマベラは本を閉じ、腹を抱えて笑い出した。「材料が足りなくて困ってたところに、いいネタが転がり込んだってわけだ!」
「……『あの方』の素性を調べるか?」男は困惑した表情で尋ねる。
「は? お前、バカか?」プリマベラは引き出しを開けて宝石箱を取り出すと、中の宝石を適当に放り出し、タグをその中に収めた。
巧みに装飾された箱の内側には、ベルベットの内張りが優しく敷かれている。たとえ海唯のドッグタグであっても、そこに置かれれば高級品に見えるだろう。
「“人力”さえ提供していれば、『あの方』に用はない。彼の小細工を深く詮索して皇帝に気づかれたら、それこそ終わりだ」
「先日の暴走についても、調べなくていいのか?」
「構わん。それより……」
プリマベラは宝石箱を可愛らしい袋に入れ、光沢のある絹のリボンで装飾し、ピアチェの好みに合うよう飾りつけた。そしてそれを男に手渡した。
「これをピアチェ様にプレゼントしてこい」
「こんなの開けて、タグの穴を見たら怒られるに決まってるだろ……」男は慎重に、両手でプリマベラの手を押し返す。
「っは! だな」
「でも、それを渡してどうするつもりだ?」
「ただの賭けだ。どんなに綿密な計画を立てても、最後に勝つのは勘のいい奴だ」そう言って、プリマベラはニヤリと笑った。
彼はそのプレゼントをピアチェに手渡すとき、こう言った。
「祭典の時に、ぜひ身につけてくださいね」
初めてプリマベラからプレゼントをもらったピアチェは、嬉しそうに微笑んだ。
リニチオ区の朝は、静けさに包まれていた。王都に隣接しているとは思えないほどの厳かな空気は、教会本部の存在によって保たれていた。
まだ朝靄が消えぬうちに、聖堂の鐘が一つ、深く鳴った。それが神悦祭の幕開けを告げる合図だった。
白亜の石畳は磨き上げられ、聖堂の中心には銀の台座が据えられている。台座の上には聖水を湛えた聖杯と、女神の紋が刺繍された布が風に揺れていた。
ピアチェ・ジュディアン――神の血を引く少女は、白い礼装のローブをまとい、ゆっくりと神壇へと歩いていく。その髪は朝日に照らされ、熟れたザクロのように鮮やかに輝いていた。
誰一人として声を発しない。司祭も、使徒も、騎士団も。すべてが、彼女の一歩一歩に息を呑んでいた。
神壇の前に立つと、ピアチェは静かに膝を折り、両手を聖杯にかざした。聖水が光を受けて、わずかに揺らぐ。
その身を清める儀式――浄身が始まる。
冷たい水が額に、首筋に、指先に触れる。そのたびに、銀の光が一閃するように彼女の周囲を包み、女神の加護を象徴する花びらの幻像が空中に舞った。
ゆらりと舞い降りた花びらが静かに水面に落ち、ゆるやかに広がる漣の輪が交差する。
ほとんど気づかれないほど微かな香りが、この神聖な空気をじわじわと蝕んでいく。
「なんか、いい匂いしない?」と気づいた時には、もはや手遅れだった。
舞い降りる花びらは幻像ではなかった。あれは迷迷草の花びらだった。
プリマベラは浄身儀式の式場から伝わるかすかな笑い声を耳にして、それを楽しむように目を閉じた。
ステンドグラスの回廊には柔らかな光が差し込み、床に七色の影が揺れている。彼の微笑む顔もまた、道化のように七色に照らされていた。
「トロファト。俺は人生を幸せにする方法なんて知らないけど、不幸になれる方法なら教えられるよ?」
トロファトと呼ばれた男は珍しいものを聞いたかのような表情で、プリマベラの方を見た。
「……なんだ?」
「いや、俺の名前、覚えていないと思って……」トロファトはそう呟いた後、気を取り直すように咳払いし、プリマベラに尋ねた。「それで、不幸になれる方法とは?」
「麻薬だ。中毒性があって、“もっと、もっと”って欲しがる。人の思考を真っ白に塗りつぶして、快楽に溺れさせる」
そう言うプリマベラの笑顔は、楽しんでいるようでありながら、どこか退屈そうに見えた。
トロファトはその表情を見て、目を見開き、驚いていた。だがそれ以上に、その人に強く惹きつけられていた。
神悦祭は、途中で止めることはできない。何があろうと、続けなければならない。
そうして正午。太陽が天頂に達した時、神悦祭の本番が始まった。
広場中央に設けられた神壇に、再びピアチェが姿を現す。今度の衣は、赤に白銀刺繍を施した礼装。その刺繍の模様は神裔のみが許される聖紋章だった。
ピアチェは目を閉じ、深く息を吸う。頬には火照りのような赤みが差し、冷たい汗と熱を帯びた肌が彼女を混乱させていた。
例年よりも人数が多い使徒はピアチェから背中を向いて二列に並ぶ。それは警備をするためもあって、“儀式中”の神裔を直視することが禁じられているからでもあった。
神壇に横たわるのは、先日亡くなった三名の神官。真夏の季節にもかかわらず、遺体は匂いもなく、美しい顔のまま安らかに眠っているかのようだった。
神壇脇に立つ司祭も、昨年とは違う顔ぶれだ。
しかし、ピアチェにはそれを気づく余裕すらなかった。「早く、終わってほしい」――そう思ったのは、彼女にとって初めてだった。
そして、唇から静かに、最初の旋律が紡がれる――はずだった。
「!?」
声が、出ない。
ピアチェは無意識のうちに助けを求めるような視線を周囲に向けたが、司祭は茫然とした様子で前を見つめたままだ。
聖堂の外で目を伏せていた群衆も、わずかに顔を上げ始める。
眩しい太陽が照りつけ、静かな風が吹く。だが、歌声はなかった。
群衆は皆、顔を上げた。そこにいたのは、震える手で自らの喉に触れる神裔だった。
小さなざわめきが、徐々に広がっていく。
「「「どういうこと?」」」
「「「ママ、神裔さまは歌わないの?」」」
「「「死者蘇生の奇跡は?嘘だった?」」」
「「「先週、プーセル公国で何人も生き返らせたのをこの目で見たぞ。嘘なはずがない」」」
「「「……神の奇跡は本当だ」」」
「「「神の奇跡は本当ですか?……」」」
そして、神壇の脇に立つ司祭がピアチェに短剣を突き立てたことで、困惑から始まった不安は、一気に恐怖へと変わった。




