25-04
記憶はうんこと同じだと思わない?何を食ったかまったく見当たらないし、流したら消える。04
スピリトたちが食堂で交わす口喧嘩とは違い、こちらの喧嘩は肉を貫き、骨まで響く本物だった。
マスターの言いつけにより、海唯には「戦う」という選択肢が取り消され、残ったのは「逃げる」「かわす」「なんとかする」だけだった。
彼女は足元の布を踏んで滑り、四つん這いで這いずり、時には柱をよじ登って飛び降りる。まともな戦闘訓練では到底あり得ない動きだったが、それでも紙一重でリヒルの斬撃をかわし続けていた。
そのため、一瞬のつまずき、わずかな体勢の崩れが致命的な結果を招く。
「やべっ!」と、その考えが脳裏をよぎった瞬間、海唯はすでに赤ワインがこぼれた床にパタッと倒れた。
リヒルの拳がぶつかった瞬間、まるで鉄塊が顔面を貫いたかのような衝撃が走った。
骨の奥が軋み、視界がチカチカと白く弾ける。まるで星でも見ているかのように、目の前に無数の光点が浮かんでは消えた。
遅れて、耳元で「ブゥゥゥン……」と蜂が飛び回るような低いうなり声が鳴り始める。鼓膜の内側を小さな羽音がくすぐり、世界の音が歪んで遠ざかっていく。
頬の皮膚が焼けるように熱い。感覚が過敏になりすぎて、風すら痛い。口の中には鉄の味が広がり、舌の裏から血が滲む。
重力が斜めに傾き、脳が頭蓋の中でぐらりと揺れた。体がどこにあるのか、一瞬わからなくなる。
「うわー、これ、マジで痛いやつだ」リヒルの“教育”を子どもの頃に受けたことがあるストロは、胃液を吐いている海唯の隣でしゃがみ込み、「お前なら避けられると思ったわ」と他人事のように茶化した。
「で?何でスー坊もここにいるんだ?」リヒルは剣を鞘にしまい、手首を回しながらストロに聞いた。
それは、少し前の時間での出来事だった。
王宮の一角には、やや豪華な寮が建てられている。そこに住んでいるのは、エレディッタ魔法学園の学生と、王宮勤めの職員。
そして、全員が首輪を付けられた黒髪の者たちだ。
その中にはもちろんストロも含まれている……と言いたいところだが、彼は「なんで海唯だけがこの寮に住まなくていいんだ!」と文句を言い、外の宿に滞在する許可を得た。
「ここ、タダで住めるんだぞ?」
「食事も掃除も自分でやらなくていいって最高じゃん?」
「別に門限とかないし、いいんじゃね?」
「海唯の奴は異例だろう?ほら、聖女さまと同じで、目も黒のだし」
他の黒髪の者たちがその行動を理解できない中、ストロは宿探しを始めた。
帝国にいた頃、黴びたパンや雨水も口にしたし、狐狼護衛団にいた時も、王国からの物資や資金が厳しくてもなんとかやっていけた。だから、ストロは一人暮らしなど簡単だと思っていたのだろう。
だが彼の見通しが甘かったのは、王宮勤めの給料が思った以上に“弾む”ことだった。
そんな大金を手にした結果、「寮など住まなくても外で自由に暮らせる」という考えがアダとなり、ストロはわずか半日でその金を博打と酒と女に使い切った。
その時、彼の前に現れたのが、喋る白い狐だった。
「海唯さんは今、《浮き雲》にいますよ」
「うお!?」
「わたしく、海唯さんの契約魔獣です」
「うーわっ!?マジで喋った!幻聴じゃないかよ!え!?なんで?」ストロは白玉を捕まえようとしたが、逃げられた。
そして、まるで、急かしているように、白玉はもう一度伝えた。「海唯さんは今、《浮き雲》にいます」
「……おお、どうも」
そうして、ストロは白い狐に感謝し、海唯の部屋に流れ込んだ。
「……」ドアを開けた海唯がストロを見た瞬間、すぐにドアを閉めようとしたが、腕力で負けて彼に押し入られた。
「主従契約しただろう!泊めさせろよ!」ストンと床に座り込んだストロは、ここから動かない意思を示した。
「ざっけんな。寮あるじゃん、そっち泊まれよ」
海唯は容赦なくストロの顔を踏みつけて追い出そうとしたが、彼は海唯の足首を掴み、大騒ぎを始めた。
「嫌だよ!一人暮らしすると言ったそばから、戻れねーよ!」
「知るかよ!クレインのとこに行けば?喜びそうじゃん?何なら、腹黒王子でもいいだろう?仲直りしたろ?」片足を掴まれていても、海唯はびくともしなかった。
「……いや~なんかぁ~」ストロは視線を泳がせながら、わざとらしく肩をすくめながら、自分の肩を踏んでいる海唯の足に小犬のように頬をすり寄せた。
そして、やたらと口をもごもご動かして話した。
「あいつらは、久しぶりっていうかさ〜、なんていうか〜……今、コルフが謹慎中だろ?で、クレインは、ほら、あれじゃん?4年前の姿のまんまだし、一緒のベッドで寝るのってさ〜……なんか、犯罪っぽくね?いやいや!別に何かしようってわけじゃないんだぞ!?だからさ〜〜〜〜……」
「知るかよ」海唯は盛大に白目を剝いた。「ってか、何で今日ここにいるって知ってるんだ?あと、いい加減、手、離せ」
海唯の言い様はうんざりを通り越して、ほとんど呆れていた。
「ああ、喋る狐が教えた。なんか、お前の契約魔獣って言ってたな。お前、マジで魔法系統どうなってんの?何で狐が話せるの?どうやったの?」
ストロが海唯の足首を放したその刹那、彼女はすかさず見事な回し蹴りをお見舞いした。
「わたくしは、海唯さんとの魔力連携が繋がっている限り、どこからでも出ていけます。ちょうど従もできたので、便利だと思いませんか?」
「っち」海唯はストロの背中に乗っている白玉を見て舌打ちした。でも反論はしなかった。
こうして、ストロは海唯が借りた部屋を、我が家のように住み始めたのだ。
その当日、ストロが部屋に戻った時、白玉は再び現れた。
「海唯さんの伝言です。『帝国の大使館に来い』とのことです」
「……ずいぶん急だな……」まるで自分が帰った時間を見計らっていたかのように現れた白玉を、ストロは睨みつけた。
ストロは白玉のことを信じていない。具体的な理由は説明できないが、「なんとなくいけ好かないやつ」と直感が告げていた。それでもストロは大使館へ向かった。
「聖女さまが、ここから“変な魔力”が感じられると言ったから、見に来たっす」ストロは両手でピースしながらリヒルの質問に答えた。
「変な魔力?」リヒルは海唯の腕を引き起こし、手錠をかけた。一応、現行犯なので逮捕だ。
「えっと……」ストロはチラッと海唯を見て、「聖女さまは詳しく言ってないっす」
重たい空気の中で、ストロはリヒルと顔を見合わせるだけで何も言えなかった。
これ以上言ったら、嘘がバレるかもしれない。
「……あのなぁ」海唯は口の中で唾を転がしてから、しぶしぶと口を開いた。「……ここに転がってる神官?っぽい奴と……バラ肉のことを…言ってるなら、まず……はっきり教えてやろう」
手錠をかけられた海唯は、まだ頭がくらくらしていて、力が抜けたようにその場に尻もちをついた。
海唯は足で神官の亡骸を小突いてから、続けた。
「コレはとっくに死んでる。外見の加工方法はわからないけど、中身は防腐処理とかされてるし、たぶんもう死んでから4年くらい経ってるんじゃないか?」
「……」リヒルは、ただ「ありえない」と思っていた。
「そしてだ……このバラ肉」めまいで吐き気を催した海唯は、何度かえづいた後、床に転がっていた肉片をひとかじりし、数回咀嚼してから吐き出し、何事もなかったかのように話を続けた。
「ほら、やっぱり。人の肉だけど、作りものみたいだ。……ん~、肉っぽいキノコってあるだろ?あれに近い感じ」
その行動に、リヒルもカファロも顔に出るほどドン引きした。ストロだけは、納得したように薄く笑った。
「……」リヒルはさらに、信じられない表情を浮かべた。
「っち、ダメか」海唯は小さく呟くと、鼻血を噴き出し、話題を変えて、「この場所をウロウロしてる“卍解した斬魄刀”が見えるんだろ?そいつらに何か聞けば?」
「……は?」リヒルの眉がぴくりと動いた。
「そこの筋肉バカと、不良くんも見えてるよな?あの……ほら、神官に寄りかかってるやつ」
「見えてます……」カファロはリヒルに向かって頷いた。
「まあ、いるな。ぼやっとした感じの人……?ていうか、さっきからずっとうるさくね?」
「ほら見ろ!三人も見えてるんだから、ガチだろ?なんか変なこと言ってるし、こっちガン見してんだよ。さっきからずっと」先生に叱られている子供のように、海唯はリヒルに反論した。
リヒルは顔をしかめ、カファロとストロに向かって言った。「……お前らも、頭打ったのか?」
「おっさんだけ見えてないって、絶対、お前の方がおかしいじゃん」
「それを説明しろって言ってるんだ」
「いや、無理だろ……誰が“卍解した斬魄刀”の理屈をちゃんと説明できる? 久保さんじゃないし」
「……卍解?」カファロがぽつりと呟く。
「斬魄刀?」ストロもぽつりと呟く。
「……まあいい。その“ざんぱくとう”とやらについて、裁判所でたっぷり語ってもらおう」リヒルはそう言いながら、カファロに海唯を馬車に放り込ませた。
残されたストロはため息をつきながら、「面倒な主だな」と呟き、後を追って「……どうする?」と小声で海唯に尋ねた。
「……何が?」
「……ついてきてるけど?えっと……“ざんぱくとう”が」
その後ろで、“半透明のひと”が、スンーっと滑るように近づいてきた。そのうちのひとりがストロの体をすり抜け、頭だけが彼の腹から出てきた。
三人は一斉にビクリと震えた。さらに、ストロはひたすら気持ち悪さを感じた。「近い近い近い!」
「「キモ」」
それを見て、海唯とカファロは同時に一歩引いた。
「おい!ひどくね?」
「「ついでにそのまま掴んでみろ」」
二人はまた同時に、無茶なことを言いながら、ストロから大きく距離を取った。
「お前ら、覚えてろよ!」
宴会場の異様な空気は、まだ完全には晴れず、妙に騒がしく、少しだけ現実離れしたまま続いていた。
弟を叱っている最中、アキレスの視線が一瞬、横をよぎった。
馬車へと引かれていく海唯の姿。両手に手枷をかけられ、カファロとストロに伴われて乗り込むその光景を目にした瞬間、アキレスは咄嗟に駆け出し、海唯を掴もうと手を伸ばした。
だが、リヒルがすかさずその襟首を掴み、彼を乱暴に引きずり下ろした。
「ここはお前に関係ない。弟を連れて帰れ、アキ坊」リヒルはアキレスの肩に手を置き、軽く叩いてから、低く重く告げた。「ミルドレッド嬢が迎えに来たようだな。姉さんに心配かけないように、アルベドのこと、ちゃんと叱ってやれ」
アキレスは肩に置かれたその手から、リヒルの気持ちを感じ取っていた。自分を海唯の件に巻き込みたくないという意志を。「……俺は、自分が何をしているのか、ちゃんと分かってるつもりだ」
「あの子にとって殺しは呼吸と同じだって知ってるのに、自分の中にルールがあるみたいだから、俺は野放した。俺の判断ミスだ」
「海唯はそういう人じゃない」
「お前はまだ若い。……きっと、もっと大人になったら、後悔する時が来る」リヒルはそう言って、アキレスを姉のもとへと半ば無理やり押し返した。
「しない」反発するようにそう言いながらも、アキレスは、車椅子に乗って弟たちを迎えに来ている姉を見て、結局は背を向けられなかった。
「はあー……たまには家族とちゃんと話し合え。……ほら、帰れ帰れ。ここは第三の現場だ。第二の団長は出しゃばるな」
アキレスがもう一度振り返った時には、馬車の扉はすでに閉じられていた。
殴られた頬がずきずきと痛む。鼻血は止まらず、乾く間もなくまた流れてきた。手枷がかちりと音を立てるたびに、肩の傷口に響く。
本当に、ボロボロだ。
馬車に座り込んでいる海唯は頬を腫らしたまま、上目遣いで睨んでいた。睨んでいたが……ぶっちゃけ、完全に負け犬の目だった。
「面白がってんの?」海唯は、なぜかついてきて馬車に乗ったストロに、イラついた口調で問いかけた。
「俺は騎士団じゃないし」ストロは両手を軽く上げて答える。
「だろうな。……鎖骨の間のマーク、どこで知った?」
「お前がつけた。……って、今のお前に言っても信じねぇだろうけどな」
その言葉に、海唯の目が一瞬だけ細くなった。
「不良くん」
「あ?」
「マスターは考えない駒が要らない」海唯は静かに呟く。
「は?」
海唯はストロが聞いてたかどうかなんて気にもせず、足かせを引きずりながら一蹴りでストロを馬車から蹴り落とした。彼の様子を見ずに、先ほどの三人組に向かって喉を張り上げて叫ぶ。
「思春期のガキども!金貨三枚!忘れんなよ!」
「海唯さん!?またリヒルさんにボコられますよ。しばらく、大人しくしてください」カファロは海唯を押さえつけ、彼女がまた自分に不利な行動を取らないようにした。じゃないと、本当に罪を免れなくなるからだ。
記憶はうんこと同じだと思わない?何を食ったかまったく見当たらないし、流したら消える。 完




