これでいい
朝。
「……ん……ちゃん……」
誰かが僕を呼んでいるような気がする。
気のせいかな?
気のせい、気のせい。
あんたは一生ここにいればいいのよ。
その声は……鬼姫か?
だとしたら、どうする?
どうもしないよ。
けど、僕の体を使って悪事を働こうと思っているのなら話は別だ。
そんなことして、あたしに何かいいことあると思う?
そう、だよな。そんなことしても、お前は僕の体から出ていくことはできないし、警察の厄介になるだけだもんな。
でしょ? だから、あたしはしばらくあんたに危害を加えるのをやめようって思ったのよ。
しばらく……か。
何よ、何か不満でもあるの?
いや、ないよ。ただ、お前の口からそんな言葉が出てくるとは思ってなかったから、ちょっと驚いた。
そう。じゃあ、そういうことだから、くれぐれもトラブルに巻き込まれないようにしてね。
ああ、努力するよ。
「……いちゃん……お兄ちゃん」
この声には聞き覚えがあるな。
すごく聞き覚えがある。
記憶を消去されても、体が覚えていそうな声だ。
僕の頭の中までスーッと吹き抜けて、全身を心地よい風で満たしてくれるような声だ。
起きなきゃ。
僕はまだ……。
自力で起きれないの? まったく、しょうがないわね。ほら、早く起きなさい!!
鬼姫に背中を押された雅人はゆっくりと白い光に向かって手を伸ばした。
「……お兄ちゃん! 起きて! 朝だよ!」
「……ん……うーん……おう、夏樹か。おはよう」
やっと起きた。
「おう、じゃないよ。ほら、早く起きて。今日から、また学校なんでしょ?」
「ああ、そうだったな。ごめん、今起きるよ」
彼が上体を起こすと、彼の頭の中に誰かの叫び声が聞こえた。
「……!? な、なんだ? お前はいったい……」
「お兄ちゃん、大丈夫? 頭、痛いの?」
夏樹が彼の頭を優しく撫でると、その声はぴたりと止んだ。
なんだったんだ? 今のは。
「大丈夫だよ。もうなんともないから」
「本当に?」
心配してくれるのは嬉しいけど、夏樹の前でかっこ悪いところを見せるわけにはいかない。
「本当だよ。心配してくれてありがとう」
彼が彼女の手を優しく握ると、彼女はニッコリ笑った。
「どういたしまして」
これでいい。
そう、これでいいんだ。
夏樹には幸せになってもらわないと困る。そうじゃないと、死んでも死に切れない。