蚊
えっと、僕はいつまでこうしてればいいんだ?
「あのー、夏樹さん。そろそろ離れてもらえませんかねー」
「あと少しだから、おとなしくしてて」
妹はそう言うと、僕を強く抱きしめた。
「痛い! 痛い! 痛い! 骨が砕ける! 骨が砕ける!」
「え? あっ、ごめんね、お兄ちゃん。ちょっと興奮してた」
興奮?
「そ、そうか。えっと、じゃあ、そろそろ離れてもらっていいか?」
「うん、いいよ」
妹が僕から離れた瞬間、僕の首筋に蚊が止まった。
僕はそれを手で潰した。
春なのに蚊に刺された。
僕の血って、おいしいのかな?
僕は手の平にある蚊の死骸をティッシュで拭き取ると、それをゴミ箱に捨てた。
「それじゃあ、いってきます」
「待って」
えっと、どうして僕は呼び止められたんだ?
僕はゆっくりと妹の方に目をやった。
「ねえ、知ってる? 蚊って、メスしか血を吸わないんだよ」
「そ、それは知ってるよ。それで、えっと、どうして僕の方に近づいてくるんだ?」
妹は僕が一歩後ろに下がると、一歩前に進んでくる。
「私以外のメスに、お兄ちゃんを渡したくない。それが例え、血の一滴であろうと……」
「む、虫に嫉妬するなよ。あいつらだって生きるためだったり、子孫を残すために必死で……」
僕はいつのまにか壁際まで追い詰められていた。
妹は壁に手をつくと、僕の目の前まで顔を近づけた。
「だからって、何をしてもいいの? お兄ちゃんの一部をほいほい他のメスに分け与えるくらいなら、私が全部もらうよ」
「い、一旦落ち着けよ、夏樹。な?」
僕が妹の両肩に手を置こうとすると、妹は黒い長髪で両手を振り払った。
「おとなしくしてて」
「……え?」
妹の鋭い眼光が僕の体を硬直させた。
「私、お兄ちゃんを傷つけたくないの。だから、おとなしくしてて。分かった?」
「あっ、はい、分かりました」
妹は僕の首筋に顔を近づけると、先ほど蚊が止まっていたところを舌で舐めた。
「……っ!?」
「はい、おしまい」
今、僕は何をされたんだ?
「な、なあ、夏樹。今のって……」
「え? 蚊を潰した時に蚊が吸った血がお兄ちゃんの首筋に付いてたから舐めとっただけだよ?」
な、なんだ、そういうことだったのか……。
「あっ、もしかして、ちょっと期待しちゃった?」
「そ、そそそ、そんなことあるわけないだろ! え、えっと、じゃあ、行ってきます!」
彼はそう言うと、妹の部屋から退室した。
「はーい、バイト頑張ってねー」
夏樹はそう言うと、指で舌先に触れながら微笑みを浮かべた。




