8 水と石
母親のようだと、彼は言った。
「オーブを見ると母を思い出す。母は俺が五歳のときに亡くなった。俺は二十五歳でこちらの世界に来たから、もう顔もよく覚えていないが」
彼は子どものようなフェアリーだった。
「どうして誰もモンスターと戦おうとしないんだ。敵なのに!」
モンスターもアニマの一つで、敵ではないのよと言っても、彼は聞かなかった。
「俺を認めてくれよ。俺は命をかけてモンスターと戦うから、俺を勇者だと言ってくれ」
彼の情熱が冷めたのは、ずいぶん年を取ってからだったのだろう。
老いてゴエで倒れたとき、彼は疲れ切っていた。
「……私は何だったのだろう」
彼はその頃には戦うことをやめ、黙々と石の細工を作っていた。
「どうしてフェアリーはこの世界に呼ばれるのだろう。なぜ私は、何一つ世界のことを明らかにできないまま死ぬのだろう」
疲労と後悔。晩年の彼を見ているのはつらかった。
「いいな、オーブは。アニマの寵児には、きっと私のちっぽけな悩みなんてわからないんだろうな」
そうなのだろうか? 私はいつも彼に共鳴していた。
「もしアニマに還ることができたなら、ドラゴンに生まれ変わりたい。そうしたら、この世界は全く違うものに見えるんだろう」
最期の言葉は、ため息のようだった。
「ドラゴンの故郷に、行きたかった……」
私は彼を抱きしめて、彼がアニマに還ることができるように祈った。
私はあなたを待っていました。私を友と呼んでくれたあなたは、私の勇者でした。
彼は信じなかったけど、何度も繰り返した。
今でもずっと、思い続けている。
――生まれてきてくれて、ありがとう。
セツは懐かしい光を感じて目を覚ました。
旅に出る前はいつも側にあった光。ドラゴンのアニマの輝きだ。
「シーリン……?」
まぶたを持ち上げると、巨大な岩が目に入った。
城のようにそびえたち、堂々と坐す王のようだった。銀色に輝いて、まぶしかった。
セツと名を呼ばれた気がした。セツは起き上がって辺りを見回す。
暗がりに目が慣れると、洞窟のような空間だとわかった。四方が岩で囲まれていて、セツの周りにだけ空洞がある。
セツが倒れていたすぐ側に小川の気配があった。水の流れは小さくなって、やがて小川は消えたようだが、どこかで水の流れる音が絶えない。
「地下鉱脈……」
「ジークが発掘して、長い間埋もれていたところです」
ひときわ目立つ巨石から、今度は確かにオーブの声が聞こえた。
「オーブ?」
セツは辺りの岩が放つ光に力を借りて手探りで歩くと、その巨石に触れる。
「銀だ。加工してある。こんな大きな石、自然にはできない」
オーブがうなずく気配があった。
「ジークは元の世界にいた頃、鍛冶屋だったそうですから」
「……それで」
セツは唇を噛んで、巨石を見上げる。
「ドラゴンだったオーブを、石のモンスターにしてしまったのか?」
「モンスター……そういう名前もあります」
オーブの声は哀しそうで、和らいでもいた。
「私は自分を精錬石と呼ぶ方が好きです」
ふとオーブの声が笑った。
「ありがとう。お礼を言うのは二度目ですね。あなたがアニマを動かしたおかげで、私は自分の形を思い出せた」
いつものように、オーブが小さな手でセツの頭を撫でるような気配がした。
「また眠りにつきます。石は眠るものですから」
「……オーブ!」
セツは声を張り上げた。
「だめだ! 君はドラゴンなんだ!」
ドラゴンの原型をなくしながらも、今なおアニマの輝きを放つ巨石、それが彼女だ。
「ドラゴンは生命に祝福されて生まれてくるものなんだ……!」
セツは声を途切れさせる。辺りに満ちた腐臭で、鳥肌が立った。
石の欠片が寄り集まって来て、粘土細工のように人の形を作った。伸びてぱさついた茶髪の下から、虚ろな瞳でこちらを見ている。
アンデッドが剣を抜いたとき、セツも同時に短槍を構える。
どちらもしばらく動かない。水の流れる音が響くだけ。アニマさえも息をひそめて、二人を見守っている気配がした。
先にアンデッドが動いた。セツは短槍の刃先を地面に向けて、飛びのくようにアンデッドの剣をかわす。立ち位置を変えて、短槍で地面をかすめながら距離を取る。
十回ほどそれをくりかえす内、石の地面に無数のひっかき傷ができていた。
『水と石のアニマに問う』
セツはアンデッドを見据えながら、アニマに呼びかける。
剣をよけきれず、短槍で受け止める。短槍はきしんで、今にも折れそうな音を立てる。
『僕たち(フェアリー)は知っている。僕たちの故郷では誰も一人、死に至った。きっとみな孤独だっただろう。それは不幸か?』
ひときわ大きな音を立てて、短槍は真っ二つに折れた。
剣ほどの長さになったそれを、セツは一度降って構える。
「オーブ、孤独を恐れないで。孤独はそんなにも悲惨なものじゃない」
声を落として、セツはオーブに話し掛ける。
「……母と分かたれたとしても、誰かと出会って、生きていくことはできるんだ」
半分になった短槍を持ち替えて、セツは構える。
『君に願う。どうか生きることを選んで』
水の流れが、耳元で鳴りはじめる。アニマが騒ぎ、セツの周りを取り巻く。
『セレクション!』
短槍の先で、アニマが膨れ上がった。
水と石が渦巻き、セツの短槍とアンデッドの剣の間で暴れる。反動で後ろに吹き飛びそうになりながら、セツは足を踏ん張る。
頬を石が掠めて血が流れる。
セツは短槍の先がアンデッドの胸を貫いたのを確かに見た。
そこにはもう心臓はない。石で出来た抜け殻の体が、からからと音を立てて崩れる。
――すまなかったな。若いフェアリー。
痛みと苦しさの中、誰かの声が聞こえた。
――さよなら、オーブ。
少年のような声を聞いたとき、セツは濁流に飲まれて意識を失った。