7 堕ちたもの
わだちの跡は、先に向かうにつれて細く頼りなげなものになった。
動物もモンスターを恐れて近づかないらしく、虫も少ない。花の種子を運ぶものがいないからか、この辺りでは花も咲いていない。
暗闇が訪れると、不安も増した。セツもオーブも、自然と無口になる。
「上手く吹けないな」
「好きな歌を練習してみてはどうですか?」
笛を吹いて気を紛らわそうとしているセツに、オーブが肩の上で寝そべって勧める。
「甘い恋の歌とか」
「恋? そんなの、まだよくわからないよ」
久しぶりの夜長話は、そんな風に始まった。
「オーブは恋をした?」
「もちろん」
「それは楽しいの? 苦しいの?」
「苦しいときの方が多かった気がします。でも楽しいときも確かにありました」
オーブはセツの膝に舞い降りて、暗闇に語りかけるように歌を口ずさむ。
切ない歌詞だった。オーブの柔らかな高音に包まれて、セツの耳に心地よく響く。
「綺麗な声。上手だね」
オーブがお辞儀をすると、セツは拍手を送る。オーブはふと苦笑を浮かべた。
「歌にでもしないと、なかなか思いを口に出せないんですよ」
「大人の世界だ」
「セツももう大人でしょう?」
「そう……なのかな?」
夜遅くになってテントに入ってからも、そんな話をしていた。
道が細り、言葉数が減っても、音に乗せると少しだけ二人の間に明るい雰囲気が訪れる。
あるとき、セツは真夜中に目覚めて気づく。今、自分は寂しくない。
ゴエに辿りつけなくとも、ドラゴンに会えなくとも、自分は笑っていられる。
けれどだからなのか、心に息づく小さな泉のような憧れもよく見える。
アンシエントドラゴン・バレー。ドラゴンたちの故郷。
ドラゴンは、セツ自身であり故郷にはたくさんいた「人」という種族に見た目は限りなく近い。ただ、めったに他の種と交わらない。
セツは彼らの側にいたかった。シーリンがそうしてくれたように、毎日を共に過ごしたかった。
セツは寝具を引き寄せながら、目を閉じて眠りに身を委ねた。
ウタを出発して十日後、セツはオーブと食事をしながら問いかけた。
「オーブ、具合が悪いんじゃないか?」
オーブは枯葉の皿から一口もスープを飲んでいない。朝もほとんど食べていなかったのを思い出して、セツは自分の枯葉の皿を置く。
顔をのぞき込もうとしたセツを避けるようにして、オーブは体を丸める。
「どうしたの?」
口をつぐむオーブに、セツは心細いような声で問いかけてしまった。
オーブに背を向けられた気がして、なんだか不安だった。何かオーブに悪いことをしただろうかと考えてみても、思い当ることがない。
「今日は僕が火の番をしてるから、オーブは寝ていていいよ」
どうしたらいいかわからず、そっとオーブが寝床にしている籠を差し出す。両手を差し伸べて、オーブを抱き上げようとしたときだった。
手元でひび割れのような音が聞こえる。セツが慌てて手を引っ込めると、オーブの肩が欠けていた。
「オーブ、体が……!」
オーブの肩から腕にかけて、まるで風化した石のようにぱらぱらと欠片が落ちていく。セツは真っ青になって、それ以上触れることもできずに震えた。
セツがかける言葉もみつけられずにいると、オーブは顔を上げて弱々しく告げる。
「……何も訊かずに立ち去ってはくれませんか」
セツは息を呑んだが、とっさに首を横に振った。
今オーブを置いていったら、二度と会えなくなる。そういう確信があった。
セツはごくんと喉を鳴らして、自分を落ち着けて言った。
「後で話してくれるなら、今は訊かない。でも置いていくのはできない」
オーブは哀しいようなほほえみを浮かべて、ふいに強くセツをみつめた。
セツはそのまなざしに覚えがあった。シーリンも以前、そうやってセツをみつめた後に言ったのだ。
「だめです。お別れですよ」
瞬間、セツは体の内部を虫が這いまわるような悪寒を感じた。胃がおしつぶされそうで、何かが後ろから襲い掛かって来るような恐怖が迫る。
セツは震えを押し殺して辺りを見回す。
「モンスターか?」
探るようにつぶやいたセツに、オーブが細い声で返した。
「モンスターはもういません。彼がすべて狩り尽くしてしまった」
「彼……?」
「行ってください、セツ。あなたを獲物にはしたくない」
「オーブ!」
オーブの言葉の意味がわからなくて、セツは声を荒げた。
霧が流れ込んでくる。得体の知れない流れが押し寄せてきて、セツの手足が冷えていく。
顔を上げたセツの目に、オーブの泣きそうな顔が映った。
オーブの全身がひび割れて、まぶしいばかりの光の塊に代わる。
光の中に銀のドラゴンの姿が浮かび上がったのは一瞬だった。
ドラゴンは稲妻のように分かれて四方に走る。
「サンダーガゼル!」
角から稲妻を迸らせるモンスターが目の前に迫った時、セツは自分もまたその光で焼かれるのを覚悟した。
けれどサンダーガゼルはセツを避けて通り過ぎた。跳ねまわるたびに地面に稲妻を落としながら、何かから逃げるように駆けていく。
「オーブ! どこに……!」
彼女の名を叫んだとき、セツのすぐ足元に何かが刺さった。
足元を見て目を見張る。地面に刺さったそれは、最初矢の形をしていた。
すぐにどろりと溶けて、地面を腐らせていく。
顔を上げると、霧の中で人影が弓をつがえていた。
「半性……いや」
動物や植物の特徴を併せ持つ半性、この世界の住民たちとはどこか違う。
強い腐臭が鼻をついて、セツに再び悪寒が走る。
不気味なほど静かに徘徊するものが何かに気づいて、セツは悲鳴のような声を上げた。
「……不死者!」
恐怖が覆いかぶさって来て、セツはたまらず逃げ出す。
アンデッドに出会ったなら何もかも振り捨てて逃げなさいと、シーリンは言った。
アンデッドはアニマから外れたもの。シーリンが教えてくれたときは、セツは困って訊き返した。モンスターとどう違うの、と。
けれどひとめでわかった。あれには何も宿っていない。
「来るな……!」
虚無、死よりも恐ろしいところに落ちて、どこにも還れなくなったものだ。
セツは息を切らしながら、暗闇の中を無我夢中で走る。サンダーガゼルが走った軌跡がなければ、たぶんすぐにつまずいて倒れていた。
ふいに一本の矢が、一匹のサンダーガゼルの首に刺さった。セツはいけないと思いながらそれを見てしまう。
サンダーガゼルの首からは血も出なかった。悲鳴も聞こえなかった。何が起こったのか、たぶんガゼル自身気づかなかったに違いなかった。
無造作に倒れて……そのまま、闇の水たまりに落ちるように消えた。
恐怖への反射のように、セツは無理やりに顔を背けようとする。
瞬間、セツの体を金縛りが走った。
音が消える。体が鉛のように重くなって、指一本持ち上がらない。
サンダーガゼルの光が遠ざかって行くのに、アンデッドの姿は真昼の最中のようにはっきりと見えた。
それはセツより少し背丈があるものの、あまり姿形は変わらなかった。目立った動物や植物の特徴もない。頭、手足、胴体の構成、顔立ちも似ている。
「彼」は限りなくセツに近かった。
「……フェアリー」
かつてセツが生まれた世界では、人間と呼ばれていた種族。
セツがつぶやいたとき、アンデッドは弓を背中に仕舞った。
「くっ!」
代わりに腰から剣を抜いて、セツに切りかかってくる。
素早く辺りを見回したが、もうサンダーガゼルはいなくなっている。獲物はセツだけだ。
セツも短槍を背中から引き抜いて、剣を受け止める。ぶつかった反動の強さに手がしびれる。
アンデッドは故郷の世界でいう「男性」らしい。セツより体格がよく腕も太い。剣にも慣れていて、セツより腕力も強そうだった。
セツは短槍を弾かれないように、必死に両手で支えて後ずさる。
足元で小石が動く音がした。
気がつけば背後に切り立った崖がそびえている。アンデッドに目を奪われて、地形の変化まで意識が回らなかった。
暗闇の中にぽっかりと大穴が広がり、奈落へと続く。
もう後ずされない。恐怖が蘇って、セツは震える。
アニマから外れたアンデッドに、アニマの力が通用するだろうか。それに手練れの剣士に敵うほど、セツは自分の短槍の腕に自信がなかった。
どうすればいい。焦りで頭がいっぱいになったとき、セツは水の音を聞いた気がした。
どこかで水が流れている。
セツは腰の水筒を手に取ると、思いきってその中身を周囲にばらまいた。
『石に眠る水のアニマよ』
アンデッドが切りかかってくる。足を踏ん張って、その場で短槍を水平にして受け止める。
剣の重みで短槍が折れそうになる。セツは奥歯を噛みしめながら叫んだ。
『貴女の流れの中に、僕を隠して!』
瞬間、地面が大きくたわんだ。
大地から水が噴き上げる。その衝撃で地面は割れて、セツの足元が消えた。
大地の狭間に落ちていく。悲鳴を喉の奥に押しこめながら、セツはアニマに身を委ねる。
落下の中、目を閉じてアニマの判断を待つ。こうするより他なかったとしても、恐怖で体が壊れそうだった。
虚空に放り出され、何を恐れているのかも一瞬わからなくなる。
セツは誰かの腕の中に受け止められた気がして、意識を失った。




