4 到来
午後から、セツはシーリンの家の掃除を始めた。箒でほこりを掃きだして、外の水汲み場で濡らしてきた布巾で窓辺や床を拭く。二階にもたくさんあったぬいぐるみは、全部外の木陰に陰干しにした。
レナと一緒に木箱の本棚を動かしていたら、本が一冊こぼれおちた。
レナは慌てて革表紙の古い本を拾う。
大切そうにほこりを払って、懐かしそうに見下ろす。沈黙したまま、少しの間ページをめくっていた。
「どうかした?」
セツが横から覗き込むと、それはシーリンの字でつづられた日記だった。
『今日、アンシエントドラゴン・バレーに黄金流がやって来た』
始まりの日付は、今から二十五年前のことだった。
『アニマに呼ばれて、たくさんの者が訪れる。付き合いの下手な私には関係がないと思っていたが……私にも変化が来たようだ』
まだ両性具有だった頃のシーリンの声が聞こえてくるようだった。几帳面な字で、シーリンは自分の心を語る。
『イミルという放浪のドラゴンと知り合った。年は私とそう変わらないのだが、元気いっぱいで、何かにつけて笑ったり泣いたりしている。ちょっとしたことでも泣くので、どうやって今まで一人で旅をしてきたのか不思議に思う』
困惑と興味と、そして親しみをこめて、シーリンはイミルのことを書いていた。
『イミルには困らされることも多い。私のように話の下手なドラゴンと一緒にいて、イミルが楽しいのかもわからない。だがイミルは私を選んでくれた。私も……イミルと過ごすことを選びたいと思う』
それから、シーリンとイミルの二人暮らしが始まったらしい。
家作りには喧嘩も多かったそうだ。イミルは綺麗な色で屋根を塗りたがったが、雨の多いアンシエントドラゴン・バレーではそれは向かないとシーリンに諭されて、何日もすねたらしい。実用性重視のシーリンとかわいさを詰め込みたがるイミルでは、家具一つ決めるにも時間がかかった。
けれど最終的に、カモミールの群生する斜面に建った樫の木の家を、シーリンもイミルもとても気に入ったらしかった。
やがてドラゴンの生活で、もう一つの大きな変化が訪れる。
『イミルが妊娠した』
シーリンは喜びより、不安に満ちた調子でそれを語った。
『古来から、交合があれば稀にそういうためしがある。いずれ私が親となって子を生み出すつもりではあった。だがイミルのアニマは不安定だ。出産に耐えられるだろうか?』
シーリンはしきりに心配していたが、当のイミルは楽観的に構えていたらしい。
『妊娠してから、イミルは忙しい。元々小物を作るのが好きだったが、生まれてくる子の服やおもちゃばかり作っている。不安なのかと訊いたら、楽しみだからと笑う。どうしてシーリンは暗い顔ばかりしているのかと、逆に不思議がられた』
セツはシーリンから聞いたことがある。ドラゴンは両性具有の個体が一人で妊娠し、一人で分身のような子を産む。それが普通で、ドラゴンの体はそれに合わせて作られている。
ドラゴンが半性のように交合により妊娠するのはめったになく、どうすれば安全に出産できるか知っているドラゴンも少ないのだとシーリンは言っていた。
『イミルの体調が優れない。アニマの世界に連れていかないでくれ。アニマの中では多くの一つに過ぎないのかもしれない。だが私にとってはたった一人の伴侶なんだ』
平静なシーリンが、不安のままに思いを吐露していることもあった。
そしてシーリンの不安は現実になる。
「……イミルさんは出産のときに亡くなったと聞いた」
セツがつぶやくと、レナがうつむく。
レナの手から借りて、セツは日記をめくる。イミルが谷にやって来てから毎日つづられていた日記は、イミルの出産の日から白紙に変わる。
『今日で日記を終えよう』
そのまま永遠に白紙が続きそうだった日記は、最後のページだけ文字がつづられていた。
『イミルのいないこの家で暮らすのはもう耐えられない。だが皮肉だが、生まれてきた子は谷の清浄な空気が必要なのだ。アニマに愛され、私とイミルに愛されてこの世界にやって来た子なんだ』
最後のページだけは日記ではなく、手紙だった。
『レナ。どうか健やかに育ってくれ。あなたを取り巻くアニマがいつも愛にあふれたものであるよう、遠くから祈っている』
セツの横でそれを覗き込んでいたレナは、口を引き結んで何かに耐えていた。
一瞬の沈黙の後、レナの頬を一筋の涙が流れる。
「恨んだこともあるの」
レナは抑えた声で言葉をこぼした。
「私を捨てるようにしてザパンに預けて、谷を去ったシーリンのこと。生まれつきアンシエントドラゴン・バレーでしか生きられない半性として私を生んだ、イミルのことも」
「二人の力ではどうにもできなかったんだ」
「わかってる」
レナはセツの手から日記を取って、それを見下ろす。
「半性たちが思うほど、ドラゴンは完全なものじゃないから……」
日記を胸に抱いて、レナは目を閉じる。
ふいにレナは目を開いて、セツを振り向く。
澄んだ青い瞳にみつめられて、セツは戸惑った。
しんと静まり返った家の中に、レナの声が響く。
「帰ってしまうの?」
「この谷は、居心地がいいんだ。甘えてしまう」
セツはうつむいてレナから目を逸らした。
「一人でいるのが寂しくて、すみかの森を出てきたけど……やっと、自分で自分のことができる気がしてきた。きっとアンシエントドラゴン・バレーにいたら、ドラゴンたちに甘えてしまう。シーリンと暮らしていた頃に戻ってしまう」
レナは一度迷って、セツの肩に手を触れる。
「顔を上げて」
近くで見て、セツはもう彼女とシーリンを見間違えることはないと思った。意思を感じさせるまっすぐな眼差しと、少女らしい潔癖さ。それはレナを包む独特のアニマだった。
レナはセツの顔を覗き込む。
「セツ。本当にシーリンと暮らしていた頃と、同じになる?」
呼吸を止めたセツに、レナは言う。
「私はずっとあなたを待っていたわ」
セツは答えようとして、喉が動かなかった。
もしかしたら、答えも決まっていなかったのかもしれない。何か大きな流れにぶつかった思いがしていて、その前で体が竦む。
自分の感情がわからず、ただ喉が詰まったまま動けないでいたとき、足元が揺らいだ。
突如、床が真っ二つに割れた。水流のようなものが天井まで噴き上げて、セツは思わず穴を押さえようと屈みこむ。
それをレナが止めた。セツの腕をつかんで叫ぶ。
「外に出て!」
「で、でも家が」
「家はただの物よ! 早く!」
言うが早いが、レナはセツの手を引いて戸口に走った。
外に出ると、樫の木の家は傾いていた。屋根が崩れ落ちてきて、レナとセツは急いで家から離れる。
「あれは……」
天高く噴き上げる水流は、七色の光沢をまき散らしていた。家を真っ二つにしたほどの力は恐ろしいのに、セツはその輝きに目を奪われる。
レナはセツの横でそれを見上げながら言う。
「黄金流がやって来たのね」
「アニマの氾濫?」
「そう。生命の流れが大きくうごめく時」
セツは先ほどのシーリンの日記を思い出す。
「シーリンがイミルさんと出会ったときも、ゴールデン・ストリームがやって来た日だった」
レナは空を仰ぐ。セツも同じように顔を上げた。
「アニマに呼ばれて、ドラゴンたちが集まってくる」
セツの目に、大空を飛ぶたくさんのドラゴンの姿が映った。翼を広げて、次々と谷に入ってくる。
十、二十……五十、やがて数えきれなくなったとき、一体のドラゴンがすぐ近くに舞い降りた。
ふっと姿が見えなくなる。その先を追って、セツは息を呑む。
地面を無数の影がうごめいていた。ドラゴンの原型だったり、動物や植物、それらの特徴を持った半性の形だったりする。
舞い降りたドラゴンは男性の姿を取ると、一つの影の前で立ち止まっていた。辺りに七色の水流が噴き出す中、影は地面から浮き上がる。
浮き上がった影はほほえみを浮かべた女性の姿になって、ドラゴンを優しく抱きとめ……地面に沈んでいった。
「ドラゴンは伴侶を求めて集まってくるの。時にはアニマの影を伴侶に選んでしまうこともある」
ドラゴンたちは続々と谷に入り、地面からはアニマの影もまた現れてドラゴンを誘う。
あちこちにダイヤモンドを散らしたような水しぶきがあふれ、真夏の氷のように心地よさそうな冷気が漂う。
その水流の中に見覚えのある影が立っている気がして……セツはもっと近づきたい思いに駆られた。
「行かないで!」
セツを立ち止まらせたのはレナの悲鳴だった。
「影を選んでも共には生きられないの!」
セツは我に返ってレナを振り向く。
至るところで影がうごめくが、レナをみつめていると、セツは目の前の存在より確かなものはないように思えた。
「落ち着いた?」
「……うん」
セツはうなずいて、決意するように言った。
「ドラゴンたちを守りたい。アニマと戦う」
眉を寄せたレナに、セツは続ける。
「レナは影の出来ないところ……頑丈な建物に隠れて。たぶん、最初に連れてきてくれた集会場がいい」
「私は戦える」
レナは首を横に振って言った。
「ゴールデン・ストリームがやって来るたび、同族が影に取り込まれるの。ドラゴンたちはそれでいいと言うけど、私は嫌なの」
レナは左手を前に差し出して、そっとアニマに話しかける。
彼女は虚空から金の槍を取り出して、それを水平に構えた。
セツは目を見開いて、ちょっとだけ笑った。
「そっか。僕たち似た者同士なんだ」
セツも短槍を取り出して、二人は小さく刃先を合わせた。




