2 雨宿り
アンシエントドラゴン・バレーは、セツがシーリンと暮らしていた森と似ていた。
ほのかに花とハーブの匂いが立ちのぼり、柔らかい風が吹く。子どもが上れそうな高さの木がぽつぽつと並び、そしてよく小雨が降った。
セツはオーブやラグランと一緒に宿屋に滞在することになったが、二人は知り合いのドラゴンに挨拶に行って留守にしていることが多かった。
セツはひがな一日、鉱石を加工したりハーブを調合したりして、時々一人で散歩に出かける。
「降ってきた……」
アンシエントドラゴン・バレーに来て五日目、セツがいつものように散歩に出かけたら、雨に降られた。
霧雨だったからセツは濡れてもよかったが、ちょうど市場に乾燥ハーブを持っていくところだったから、荷物を濡らしたくなかった。
セツは辺りを見回す。老いたニレの樹をみつけて、その下で雨宿りをしようと早足で近づいた。
「……あ」
と、そこにレナの姿をみつけて、セツは思わず引き返しそうになった。
レナにじろっと睨まれて、セツは気まずさに足を止める。
「入ったら」
「あ、ありがとう……」
かけられた言葉はそっけないが案外優しかった。セツはうろたえながら木の下に入る。
ニレの樹の枝葉はそれほど大きくない。雨に濡れないためには、レナと肩が触れそうなところまで近づかなければいけない。
どうしようと思いながら、セツは結局荷物を内側に挟んで、レナと半歩離れたところに立った。セツの左肩は雨に濡れたが、レナはちらと見ただけで、それきり黙る。
霧雨がさらさらと枝葉をなでていく。天気は良くなかったが、穏やかな昼下がりだった。
「レナ……さん。具合は良くなった?」
嫌われているとはわかっていたが、セツはつい声をかけていた。ぎこちない言葉遣いで問いかける。
「ちょっと気分が悪かっただけよ」
レナは跳ね除けるように答えて、また黙る。
やっぱり話しかけない方がよかったかな……とセツがうつむいたとき、レナがぽそっと言った。
「……ごめんなさい」
それはとても不機嫌そうで、小声でもあったから、セツは一瞬聞き間違いかと思った。
「え?」
「シーリンと呼ばれて怒ったこと」
「あ、えと」
セツは慌てて言葉を続ける。
「こちらこそごめん。見た目だけで、つい口にして」
隣を振り向いて、セツは言う。
「声を聞いたら、すぐにシーリンと違うとわかったんだ。僕が子どもの頃から、風に乗せて話しかけてくれた声だって」
「それは、うん……」
レナは目を泳がせながらぼそぼそと答える。
「アニマに話しかける練習をしていたら、そのうちあなたがアニマに話しかける声が聞こえてきたから……」
「僕はずっとアニマの声だと思ってたんだ。レナさんは、その」
「レナでいいわ」
レナは憮然として言った。
「年はあなたとそう変わらない。両性具有でもない、ただの半端なドラゴンよ」
語気が強かったので、セツは怯んで目を逸らした。それに気づいたのか、レナは眉を寄せる。
また雨の音だけが聞こえていた。ニレの葉を叩いて、滑り落ちる水音。規則正しいその音の中で、セツは隣のレナの気配だけに一生懸命耳を傾けていた。
ふいにレナは雨の中に駆けだして、花畑に屈みこむ。
戻ってきたレナの手には、ガラスのように透明な花びらを持つ小さな一輪花があった。
「これが、「セツ」。氷の花なの」
セツは幼い頃の記憶が蘇って、食い入るようにその花をみつめる。
そっとレナを見上げて言う。
「僕は、元の世界では「ユキ」という名前だったんだ」
「でもこの世界にその発音はないから、シーリンはあなたの名前を呼べないと言っていた」
幼いセツは、アニマに相談した。シーリンは優しいドラゴンで、セツは彼女に名前を呼んでもらえたら嬉しい。どうしたらいいのかなと訊いた。
「そうしたらアニマに乗せて言葉が返ってきた。温かな霧雨の中で咲く、不思議な氷の花。それはセツという名前なんだって」
セツ。その響きは「ユキ」だった自分にしっかりくる名前だった。
シーリンは温かな霧雨のようなドラゴンだった。セツを守り、時には叱り、いろいろなことを教えてくれる。その愛情の中で、セツは思った。
「氷の花の名前で、「セツ」と呼んでほしいとシーリンに言ったんだ。彼女はとても喜んでくれた」
それから、「ユキ」は「セツ」になった。怖くてたまらなかったこの世界が、セツには身近なものに思えた。アニマの声が……レナの声が、セツをこの世界につないでくれた。
「あげるわ」
差し出された氷の花は、花びらを包み始めていた。小さく収まって、ふわふわした、丸く白い実に変わっていく。
セツは大切に、氷の花を手で包み込んだ。
「……ありがとう、レナ」
セツがはにかむと、レナはまた目を逸らした。
霧雨はやもうとしていたが、辺りが暗くなってきた。空には金獅子が見えてきたのにどうしたのだろうと、セツは首をめぐらす。
「静かに」
ふいにレナに口元を押さえられて、セツは息を飲む。
レナの顔がすぐ近くにあった。肩を寄せるようにしてきて、レナの呼吸の音まで聞こえてくる。
レナはもう片方の手で、数歩先の木陰を指差す。
そこに空ろな目をした半性が立っていた。顔に血の気はなく、ぼろぼろの服をまとっている。アニマは悲鳴を上げながらその半性から遠ざかっていた。
アンデッドだ。セツの背中を冷たい汗が流れていく。今すぐに踵を返して逃げ出したいのに、その空ろな目に射すくめられたように動けない。
アンデッドはこちらに気づいて、滑るように近づいてくる。せいぜいあと五歩程度に迫っていた。
「下がって」
レナはセツを背中の後ろに押しやると、左手を前に突きだす。
耳に響いていた彼女の呼吸音が遠ざかって、セツはこんな状況なのに惜しむような気持ちがしていた。
アンデッドはもう間近に迫っていた。全身の神経が逆立つ。セツが震える手で背中の短槍に手をかけたとき、レナの声が響いた。
『アニマの内なる光よ。影を恐れず、心のままに私たちを照らしてほしい』
レナの手に槍が握られていた。セツの短槍よりひとまわり小さいが、レナが握りしめると彼女の手足のように従った。
彼女は槍を水平に掲げてアニマに呼びかけると、槍を持ち替えて突き出す。
『セレクション!』
槍はひときわ光を放って輝くと、アンデッドの胸を貫いた。
「レナ!」
目の前でアニマが爆発する。吹き飛ばされたレナを思わず両手でつかまえて、セツは一緒に倒れこむ。
セツはレナを押さえたまま転がって、両足を踏ん張って斜面で止まった。
「は……」
舞い上がった花びらの中で、セツはようやく呼吸ができるようになって息を吐く。
斜面を見上げると、アンデッドははらはらと黄金の粉になって風に散っていくところだった。
「大丈夫?」
セツはレナに声をかけて立ち上がろうとしたが、全身からどっと汗が出て、膝が砕けた。
自分が戦ったわけでもないのに情けない。セツは顔を伏せて謝ろうとした。
けれど顔を上げると、レナも額から汗をこぼしていた。青ざめて、少し震えている。
それで、彼女も怖かったんだと気づいた。
「アンデッドは怖い。僕もそうなんだ」
レナに手を差し伸べると、彼女は顔を上げてむずかゆいように口を歪めた。うん、とうなずく。
レナは戸惑いながら、おずおずとセツの手を取る。セツの力を借りて、レナは立ち上がった。
宿まで並んで歩く間、レナはぽつぽつと話をしてくれた。
「永らく閉ざされていたアンシエントドラゴン・バレーへの道が解放されたから、いろいろなものが入り込んでくるの」
「だから僕も入ることができたの?」
「ううん。あなたがアンシエントドラゴン・バレーに辿りついたから、道が開けたの」
それを聞いて、セツの体がひきつった。
「僕がアンデッドを連れてきてしまった?」
「仕方ないわ。道に迷っている者の方が、道の変化には敏感だもの」
レナはそれが良いものとも悪いものとも告げなかった。
「ここ十年ほど、アンシエントドラゴン・バレーにはドラゴンも帰ってくることができなかった。あなたが近づいてきたことで、まずモンスターがやって来た。次にアンデッド。……やがて、ドラゴンたちも集まってくるわ」
最後の言葉のとき、レナはようやく口調を和らげる。セツは少しだけ肩の力を抜いた。
セツは気になっていったことを口にする。
「モンスターに襲われたとき、大丈夫だった?」
「ドラゴンはそんなにか弱いものじゃないわ」
「ご、ごめん」
ぴしゃりと跳ね除けられて、セツはつい謝る。
「う……あの、違う。誤解なの」
レナは口をむずむずさせて言う。
「心配されるのに慣れてないだけなの。ドラゴンを心配してくれるのは、フェアリーくらいだから」
「そう、かな?」
「何度も言わせないで」
「ご、ごめん」
「あなたは謝りすぎよ」
レナはため息をついて、落ち着いた調子で話していた。
「ドラゴンたちはだんだん半性を選んでるの。じきに両性具有の古代竜はいなくなるだろうと、皆言ってる……」
レナの声を聞いていたら、また温かな霧雨が降り始めた。
寒くはない。けれど少し切ない。
けぶる視界の中、セツはレナがこぼす言葉の雨に、そんな気持ちを抱いていた。




